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セミナー

東アジア古典学の方法 第66回

日時
2021年9月10日(金)14:00
会場
Zoomにてオンライン開催 *参加方法についてはお問い合わせください
講師
徳盛誠(東京大学)、馬場小百合(帝京大学)

基本情報

概要

徳盛誠(東京大学)「十五世紀日本の古典学者一条兼良の『日本書紀』「天孫降臨」段読解――その論理と提起」

馬場小百合(帝京大学)「『古事記』允恭天皇条の物語構造と歌の役割について」

主催

科研「国際協働による東アジア古典学の次世代展開──文字世界のフロンティアを視点として」

当日レポート

 今回は科研メンバーの研究発表として馬場小百合先生と徳盛誠先生が発表を行いました。新型コロナウイルス感染症の流行に伴い、セミナーはオンラインで開催されました。

 馬場先生のご発表「『古事記』允恭天皇条の物語構造と歌の役割について」は、『古事記』の軽太子と軽大郎女の物語に焦点を当て、その叙述において歌と散文のあいだにどのような関係が成り立っているかについて論じたものでした。ご発表では太子と郎女が歌った十首の歌について、その解釈を整理しつつ、物語の進行の中で歌がどのようなものとして機能しているかについて検討が加えられました。そして、兄と妹のあいだに生じた恋が散文では不正なものとして扱われるのに対し、歌では恋慕する主体の思いが叙述され、二人の恋が許容されるべきものとして扱われていることが論じられました。また、物語の後半部において「衣通王」の呼称で歌が導かれるのと呼応して郎女が兄妹関係から解放された恋慕する主体として現れるようになること、歌による叙述が二人の思いが成就したところで結ばれるものであり、悲劇的結末を有する散文の叙述とは異なる物語を生み出していること、散文による叙述が出来事の時系列を示すのみで時間の経過を示すものとはなっていないのに対し、歌による叙述では時間の経過が当事者の実感として表現されていることなども指摘されました。

 質疑応答では、兄妹の恋愛の物語と同時に進行する皇位争いの物語との関連性をどのように考えるべきであるかという問題や、歌と散文との関係について、相互に対立するものと考えるべきなのか、相互に補完するものと考えるべきなのかといった問題をめぐって議論がなされました。

 徳盛先生のご発表「十五世紀日本の古典学者一条兼良の『日本書紀』「天孫降臨」段読解――その論理と提起」は、一条兼良の『日本書紀纂疏』を取り上げ、兼良における『日本書紀』解釈の特色を論じたものでした。ご発表では特に『日本書紀』「神代」第九段に焦点が当てられ、アマテラス(天照大神)の子とタカミムスヒ(高皇産霊尊)の娘とのあいだにニニギ(天津彦彦火瓊瓊杵尊)が生まれ、タカミムスヒがニニギを地上の「葦原中国」に降臨させたことを記したその叙述を兼良がどのように理解したのかについて検討がなされました。まず、『日本書紀』においてニニギが「皇孫」とされることが、兼良においてはニニギを「葦原中国」に降臨し、その主となることが必然の者として提示するものとして捉えられたことが指摘され、兼良がアマテラスを「中国之主」、タカミムスヒを「上帝之尊」としたことがニニギを自己実現する「皇孫」として解釈することに基づくものであること、タカミムスヒの言動が兼良においては「皇孫」であるニニギを主体として導かれたものとして理解されたことが述べられました。そして、兼良の解釈が提起するものとして、帰着するところが見えないまま語られる「神代上」とは異なり、「神代下」では最初から帰着を見通しながら語ることがなされていること、その語りが「皇孫」という〈虚点〉を設定することによって可能となっていることが指摘されました。

 質疑応答では、兼良がタカミムスヒの位置づけをどのように捉えていたのかということや、〈虚点〉を必要とする語りのあり方がどのようなものであるか、その語りがなぜ生じるのかなどについて議論がなされました。

 今回のご発表は歌と散文、あるいは原文と注釈といった複層的な構成を持つテクストに焦点が当てたものであり、その複層性が何を実現しているかといった問題に加え、その複層性をどのように捉えるべきか、また、そうした複層性を有するテクストをどのように扱うべきかといった問題についても考える機会となりました。

 

(飛田英伸 東京大学博士課程)