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セミナー

東アジア古典学の方法第59回
文字世界のフロンティア

日時
2019年11月9日(土) 10:30-17:00
会場
東京大学駒場キャンパス18号館コラボレーションルーム3
文字世界のフロンティア

基本情報

概要

 「東アジア古典学」とは、漢字文の読み書きを軸とする圏域において生まれ読まれた「古典」について、その形成・読解・注釈・変形・学習等々の実践を総体的にとらえることで、読み書きの圏域としての「東アジア古典世界」の構造を解明し、その歴史を記述し、知見を共有しようとするものです。これまで科学研究費の補助を受けて進められてきたこのプロジェクトは,今年度より,「「国際協働による東アジア古典学の次世代展開──文字世界のフロンティアを視点として」(基盤A)として新たなスタートを切ることになりました。このプロジェクトでは、とりわけ「文字世界のフロンティア」、すなわち、ある文字世界が非文字世界もしくは他の文字世界の中で生成する局面、あるいは非文字世界もしくは他の文字世界と境界を接する領域に視点をおいて、漢字文以外の書記も含めた多様な事象を検討しつつ、その生成と構造のメカニズムの諸相を明らかにすることを目指します。今回のセミナーは,そのキックオフイベントとして,プロジェクトメンバーによるそれぞれの研究や視点による対話を軸に,プロジェクトの課題について討議します。


プログラム 
総合司会 齋藤希史(東京大学)

10:30-12:00 第一セッション 
「神功皇后紀という通路」金沢英之(北海道大学) 
「日本書紀注釈における和語の役割」徳盛誠(東京大学)

13:30-15:00 第二セッション 
「仮名文の中の真名」田村隆(東京大学)
「『日本書紀』の歌における仮名表記の問題」馬場小百合(帝京大学)

15:15-16:45 第三セッション  
「日本伝存王勃作品と出土墓誌―唐代初期の文学の基盤について」道坂昭廣(京都大学)
「文字世界の外部としての「古」」齋藤希史(東京大学)

主催

科研「国際協働による東アジア古典学の次世代展開──文字世界のフロンティアを視点として」

当日レポート

 今年度から始まった科研「国際協働による東アジア古典学の次世代展開──文字世界のフロンティアを視点として」のキックオフイベントとして、プロジェクトのメンバーによる発表と討議を行いました。
 
 以下、参加者によるレポートを掲載します。なお、掲載に際して、一部変更を加えました。
 
 
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【第一セッション】
 
 金沢先生の発表は、『日本書紀』の神功皇后紀を取り上げ、中世の『八幡愚童訓』のような、神功皇后紀(説話)を基にしたテキストが生まれてくるきっかけを『書紀』の記述そのものの中に探ろうとしたものである。最初に、神功皇后紀が『魏志』倭人伝および『晋起居注』と関連付けられて記されるものであり、それゆえに『書紀』の紀年の基準点としてみなされることが指摘された。そして、神功皇后紀が、『書紀』に記される歴史を世界史の時間に接続する通路として機能するものであったことが論じられた。神功皇后説話は、『書紀』以外の文献も含め、様々な形で語られるが、例えば継体紀六年十二月条では、「夫れ住吉大神、初めて海表の金銀の国、高麗・百済・新羅・任那等を以て、胎中誉田天皇に授記けまつれり」というように、実際に行動した神功皇后本人ではなく、その子応神の事績として語られる。この点については、発表後のディスカッションに際して、平安朝までは神功皇后本人がイメージされる傾向にあったが、それ以降は応神の事績として受け止められるようになり、『八幡愚童訓』に見えるような「八幡」とも結びつけられていったと述べられた。 
 徳盛先生の発表は、中世までの『日本書紀』注釈の展開に焦点を当てたものであった。まず、『書紀』に分注の形式で挿入される和語の訓注が、文脈に即したものであり、書紀の叙述全体を、和語の叙述を漢文に翻訳したものとして指し示しているという見解が提示された。次に、平安期の『書紀』講書においては、本居宣長のように漢字表現に拘泥せず「古言」に回帰することが目指されたのではなく、漢字で書かれたテキストとしての『書紀』を尊重しつつ訓読することが追求されたことが示された。最後に、一条兼良『日本書紀纂疏』において、和訓を問わない書紀注釈・理解がなされたことに触れ、それが「和訓の機能を変えた」ものであったとの見通しが述べられた。この部分については、後のディスカッションにおいて、平安期講書が漢語(の和訓)を通して書紀の整合的解釈を図るものであったのに対し、『纂疏』や吉田兼倶『日本書紀神代巻抄』は和語による解釈空間を作り上げ、結果として漢字世界の外に広がる世界へと繋がっていたという補足説明があった。
 
 「日本書紀注釈における和語」ということについて、特に「和語による叙述」の問題に興味を持った。古代日本語の問題として考えれば、そこには書記言語と音声言語との二者があり、和語による文章=和文・仮名文は後者、当時の日常会話語に近いものであったという国語学における指摘が想起されてくる。『書紀』成立時の我が国すなわち奈良朝において、「和語を叙述すること」が果たして可能であったのか(もし部分的に可能であったとして、それは一体どれだけ可能だったのか)、この問題は複雑かつ難解であり、「語」より大きな単位の「文章・文体」史の観点からも様々に考察されてきたものでもある。
 ただ、和語を「(正格)漢文」を介在させずに書き記すことは、例えば『万葉集』のように、歌の表現に限ってのみ行われうる行為だったようにも思われる。音声言語では当然用いられていたはずの和語が、ダイレクトに書記言語の形を取って、かつある程度まとまった分量で叙述されるようになるのは、平安時代の和文・仮名文の成立を待たねばならなかった。
 かようなことについて考えてみる時、小松英雄氏の「大切なのは、仮名が誕生したことによって仮名文が発達したのではなく、仮名文が綴れるように仮名が発達したことである」(『日本語書記史原論 補訂版』第一章「仮名文の発達」)という指摘は、多分に示唆的である。この指摘の当否を判断するだけの材料を今の時点では持ち合わせていないが、「書くこと」=書記行為と「書かれるもの」=原テクストとの関係を考えていく上で、念頭に置くべき視点である。
 なお、発表後のディスカッションにおいて、(固定的なテクストにあらざる)流動的な「口伝」は、書記行為によって初めて「このテキストにおいては」と固定化される、という議論がなされた。かような議論は、渡辺実氏の「文章とは、書記言語としての閉じた言語世界を構築するものであるはずである。口頭言語の形で与えられた内容を、書記言語に転換させる時に、文章の何たるかのつかみ方の差によって、閉じた言語世界の作り方に歴然たる差を生じることもまた、事実ではあるまいか」(『平安朝文体史』)という指摘と軌を一にするものであり、音声・口頭という形でしか語られてこなかったものがテキストにおいて固定化=変換される時に一体何が生ずる(あるいは滅する)のか、という問題意識において重なるものだと思う。
 
(河野知哉 北海道大学修士課程)
 
 
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 【第二セッション】
 
 田村先生の発表は、平安期以来、仮名で書かれた物語の代表作である『源氏物語』、『うつほ物語』、『枕草子』、『栄花物語』などを取りあげ、写本における真名の表れ方や、写本の前後関係、作者の真名への捉え方を検討するものであった。まず、『源氏物語』で最古本になる可能性のある藤原定家自筆本が紹介され(京都新聞掲載資料)、時代が下るにつれて写本に漢字が増えていく傾向が、大島本、東大本に基づいて指摘された。つぎに、真名表記の事例として、『枕草子』が取りあげられ、『白氏文集』の漢詩一節が三巻本ではそのまま、納因本では書き下しで引用されていることが示された。また、三巻本と納因本の成立の前後関係について、能因本が三巻本のような漢字表記になる可能性は考えにくいこと、三巻本で「おぼえず」とされている歌が能因本で註釈的に追加されていることから、三巻本の後に能因本が成立したことが述べられた。最後に、真名が仮名文のなかでどう扱われるかが窺われる事例として、『源氏物語』と『紫式部日記』が紹介された。『源氏物語』では登場人物のせりふを借りて、漢字世界にいる明石入道への皮肉が現れていること、また『紫式部日記』では、「真名書きちらしてはべる」という表現から、漢字世界をからかう紫式部の態度が見られることが述べられた。
 馬場先生の発表では、全体として漢文で書くことが目指された『日本書紀』において「歌」とは何なのかという問題が問われた。『日本書紀』も『古事記』も、「歌は漢字の音によって一字一音で書かれる」。しかし、漢文で書かれた『日本書紀』と、和語が想定される形で書かれた『古事記』では、歌と散文の関係、そして歌における漢字の用法が異なる。馬場先生は、ほぼ同歌詞で載せられる「浅茅原」を例に、それぞれの歌と散文との関係、そして漢字の用法がどう異なるかを明らかにし、既存の研究でなされた指摘に疑問を投じた。具体的には、かつて本居宣長によって指摘された『古事記』の歌と散文の矛盾関係というのは、矛盾ではなく、『古事記』の歌は、散文の叙述を情緒的に引きあげるものとして散文と拮抗関係にあることを指摘した。また、歌に用いられる漢字の選び方が『日本書紀』と『古事記』で異なるという以前からの指摘をさらに発展させ、音の表記という問題が、前者では日本語の表記システムの外にある問題として、後者では日本語表記の問題として取りあげられる傾向があることを指摘した。
 
 田村先生と馬場先生の発表は、「ある文字を主体とするテキスト」における「主体としてあらわれなかった、かつ、取りあげられなかった側面」に注目し、それがいかなる意味をもつかを考察したものであった。その意味で第2セッションは、まさに文字世界の辺境地帯について、それをどちらかに固定することをせずに、そのままの意味を探ろうとした試みであった。報告者が勉強不足で門外漢であるために、用意してくださった資料にきちんとついていけなかったところは多くあるが、両方とも、私たちがいま見ている過去のテキストについて、その書かれた時期や作者、そして前後関係などの問題について一つの答えを出すことが可能なのかという根本的な問題を考えさせられ、さらには、「書く」とは何かという問いが頭から離れなかった。
 たとえば、田村先生の発表で取りあげられたのは仮名が主体となって書かれた物語である。そのなかに挟まる真名とは何か。これは諸物語が様々な系列の写本を持っているため、写本に関する知識がまず前提にならないと簡単に答えることのできない問いである。田村先生が今回の発表で提示して下さったヒントは、時期が下るにつれて挿入される漢字も増えていくという指摘と、物語の性格によって、たとえば、漢詩文を避ける『源氏物語』では漢字が仮名文に挿入されることが稀で、歴史物語である『栄花物語』では、作中の人物が読んだとされる漢文が実際に残っているのでそれをそのまま引用する箇所が多くあるという、物語の性質によって真名が増えるという指摘である。だが、物語類では、もともと原テキストがどんなものだったかを想定することが難しいので、真名が増えていく時点などを確定することは難しいという指摘も重要なポイントであった。また、逆に、原本そのものが、漢字が増やされたものであるとされ、さらに読み下していく作業も行われたという指摘はたいへん興味深かった。これに関連して示してくださった九州大学蔵『うつほ物語絵巻』の例は興味ぶかく、漢字が増えたという前提に立って再び「かなぶみ」に「開いていく」作業が行われたという指摘は、「物語」がもつ「カテゴリ意識」ともいえるものを想像させた。書くことで何かを単に伝えるのではなく、読む人の視認性などの機能の問題を単に考慮するのでもなく、物語の巻物を作る行為自体が、書き手のカテゴリ意識を反映するのではないかとも考えられた。
 また、馬場先生の発表も「書く」ことの意図によって異なってくる字の選択や捉え方の違いについてアプローチするものであった。現在では『日本書紀』と『古事記』がいかに異なるか、たとえば、正史を打ち立てようとし、紀伝体で書かれた前者に対し、国内向けで物語も多く含んだのが『古事記』だ、といったことは常識となっている。だが、そもそも物質としてのテキストをみれば、両方とも句読点や返り点が打たれていない漢字で書かれている。馬場先生の問題意識はここから出発し、同じ表記で、同じ歌(類歌)が、なぜ異なる次元を生みだすかという問いを提示する。とくに、『古事記』における散文と歌の関係が矛盾ではなく、それぞれが担う領域が拮抗関係として併存するのだとの指摘はたいへん興味深かった。さらに、『古事記』では、毎日鐸を成らして置目を呼ぶ天皇が描かれる散文と、「天皇としての徳と慈愛」が鐸のひびきで情緒化される歌の部分が共存するからこそ、作品として整合性をもつのではないかと思った。その反面、馬場先生の指摘どおり、『日本書紀』では、「散文が歌の内容を先取って歌の解釈を提示していく」のであれば、『日本書紀』にわざわざ歌が挿入される理由は何なのか、という疑問も生じる。この問題は、馬場先生が最後に「『日本書紀』の歌を単純に漢文の用法の中に包摂される仮借としてとらえるのとは違う向き合い方が求められる」と指摘していることとも通じる。
 
(許智香 立命館大学客員研究員)
 
 
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【第三セッション】
 
 道坂氏のご報告は、正倉院に佚文として伝わる墓誌が後世の墓誌の辞句に影響を及ぼしていることを手掛りに、7~8世紀の中国知識人層の表現様式の特色を考察する。以下、その概要を記したい。
 正倉院に残る王勃(650~676)の〈唐故河東處士衛某夫人賀抜氏墓誌幷序〉(王勃が蜀に赴任していた669~671年作成と推定される)の辞句と〈大周故府君柏善徳夫人仵氏墓誌幷序〉(701年)とはほとんど類似する。本来ならば影響関係が指摘されるところだが、道坂氏は①表現が大変似ている②拓本がとても綺麗であることから、後者の墓誌幷序の史料批判を行う。拓本の偽造は、その価値が認められた中華民国の初めの頃から活発になったらしい。
 〈大周故府君柏善徳夫人仵氏墓誌幷序〉は1931年に出土した。旧蔵者の張鈁は1931年に唐墓誌を収集し始めたそうで、この墓誌は収集最初期に求められているものなので、偽造とは考えづらい。また、当時の則天文字が正しい年次比定で用いられている他、石と共に残っている拓本の数も多くない(偽造をして売却するならば、もっと拓本が多いはずである)。さらに、唐墓誌は北魏のものが軽いのに比べて重く人気がなく、当時石を彫るまでして偽造したとは考えにくい。以上から、この墓誌は偽造されたものではなく、王勃の〈唐故河東處士衛某夫人賀抜氏墓誌幷序〉の影響を濃厚に受けている当時の墓誌である。
 王勃には他に、〈歸仁縣主墓誌〉という作品もある。歸仁縣主は李淵の孫。父が李世民に殺害されたこともあって、この墓誌が唯一の歴史的痕跡である。この作品の類似の対句を用いた墓誌が複数あり、王勃の詩文が同時代に流行していたことを伺わせる。
 王勃と同時代の墓誌としては、楊炯(?~692年)が著名である。楊炯の女性墓誌は、二篇が残されているが、それは夫によく仕えたことを述べ、また残された夫の悲しみを表現する部分もある。一方、それ以前の庾信(513~581)は夫人が属した家を表現し、碑文の作者として哀悼の意を表していた。
 それに対して王勃は、妻としての、母としての夫人を表現し、碑文の依頼者の悲しみを代弁する。そこには、残された者の悲しみの表現という特色があった。このような事実関係に基づき、道坂氏は王勃の詩文が同時代にこれほど流行したのは何故だろうという問いを立てられた。その波及の形態は、①(好まれる表現方法などがあり)流行作家だったから、これほど真似られたのか、②真似られたからこそ、人々に歓迎されるようになったのか、という二つのパターンが考えられるという。六朝時代末期~初唐にかけては、庾信が人気作家であったのだが、王勃はどうして流行したのだろうか。
 そもそも、駢文はある程度の形式を守って典拠をきちんと集めれば、文学的才能や新規性とは別に、形になるのだという。作成の模範例文集まで存在した程である。ここに、下級知識人のサロンが想定できるという。
 六朝時代から初唐にかけて、社会構造が大きく変化する。それに伴って、まず唐の時代に新しく墓誌を作る階層が登場し、彼らは新しい文学表現を求めていた。それは、例えば韓愈がそうなるように、「家」というより夫と妻、そして子というように表現の重点が、新しい知識人の価値観と共に変化した。これは知識人の存在形態とも連関していて、六朝時代文学者は生活を墓誌などの謝金に頼っていた。そのため、当時墓誌を制作する特権身分である貴族の要望に応えられないようでは次の依頼がなく、従属的であった。しかし、新興の富裕層の台頭により、彼らも墓誌を求めた。下級知識人たちも、独創性はないが、とりあえず文章を作り、それに応えた。王勃詩文流行の原因はこれらに求められよう。
 以上このように、道坂氏は六朝~初唐の文学様式の変遷を、社会構造や知識形態と連動させてお話になった。歴史学と文学とは、やはり分離して考えることは出来ないと思わされたし、官僚の地方赴任に伴う文学の「場」や、知識人の貴顕や民衆との存在における関係性など、律令の本場に対する研究成果に学ぶところは大きいと感じた。 
 また、道坂氏は、王勃の作品が日本に受容される際、これまで述べられてきたような感覚とはややずれて受容されたことをも指摘された。唐の文物や制度が日本に将来される際、必ずしも元々のまま受け入れられる訳ではないというのはままあることであり、そういった点でも、今回の知見は他分野にも応用出来そうである。
 
 齋藤氏は、「古詩」とはどのようなものであるか、という歴史的な変遷を確認した後、詩作に当たって「擬古」を行うこと、そして「古意」の詩を作ることが一体どのような営みであったかについて考察し、「古」なる概念が、ある程度規範性をもって創作のいかなる原理となっていたのかについて解明を試みられる。以下、ご報告を概観したい。
 「古詩」は一般に後漢時代に、洛陽で成立したものであるが、齋藤氏の主眼は、それがどのように成立したか、よりも、どのようにその括りが出来たか、であった。まず、詩文集では、『文選』や、『玉臺新詠』に、「古詩」という枠が立てられている。その意味の移り変わりにおいては、『漢書』藝文志では「漢より前のいにしえの詩」、『列子』では、「誰がつくったかは分からないが、昔から伝わる言葉」、『礼記』(学記)では、「規範的・教訓的な韻文」、『世説新語』(文学)では、「漢代の五言詩」といった意味で用いられていた。そして、この「五言詩」と、それ以前には、断層が横たわっている。この五言詩を、いつから「古詩」と呼ぶようになった(「擬古」の対象とした)のだろうという問いが出来する。
 「擬古」とは、モデルとなる詩についてまるで主人公が古の時代にいるように擬作することである。この営みは、「古詩」の意味転換と同じ頃、3世紀に「詩題」として発生する。陸機(261~303)の「擬古詩」も後にジャンルとなったものだろう。「魏の阮籍に学ぶ」といった方法とも関連する。5世紀になると、「古意」詩が登場する。個別の模倣がなくなった訳ではないが、六朝のサロン文学として、詠物詩が求められた時、その一つとして「古意」もあった。「古意」は創作意志(意)や、文体(体)を触発する。「古意」は「擬古」と違い、現実を古めかして非現実なものへと転化する。これは、新しいタイプの人間関係や都から遠く離れた辺境、そして自伝の発露など、従来の「擬古」では表現しきれなかった語りの需要を満たした。
 如上の表現形態が成り立つためには、語における「古」の意義が共通に認識されていなければならない。この、「古」を捉える認識の変化にむしろ注目すべきである。それでは、六朝詩における「古」とはどのように認識されていたのだろうか。「古詩」は、近代的な文章とは異なり、修辞的にも民間歌謡と連続したものだった。晋王朝が再興され、修辞が発展、題材も多様化してゆく。これまでをどう捉えたらよいのか、という中で、「今」と「古」という意識の発現は、「意」(モチーフ)や「体」(スタイル)としての「古」の発生をも促した。「いまここ」の外や、根源的で普遍的な世界の基点は、「書かれたもの」の外在性を利用する前提を担保する。六朝時代に近体詩が成立しても、古体詩は作られ続けた。近体詩では掬い取れない世界があるという発見は、とりもなおさず「古」の再発見、再定位であった。贈答詩も、お互いを「古の詩」の登場人物に擬するという点で、非常に重要なジャンルであった。「古」という外部は、修辞世界や技法の発展とは裏腹に、外部として、文芸上様々な取水場としての「古」が設定される。
 齋藤氏のご報告は以上のようなものであった。ある概念は、やはり差異化を通らねば、定位されることは難しい。近代からリフレクティヴに定位された「古」が、外部であると同時に普遍的な基点として、いつでも現状と外部として接続される。例えば、日本の和歌が通時的観点を手に入れたのは平安後期とされるが、このような認識変更を惹起した構造についても、本報告に学ぶことは大きいだろう。
 
(弓山慎太郎 京都大学修士課程)
 
 
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(編集:飛田英伸 東京大学博士課程)