基本情報
概要
10:00 趣旨説明
【報告】(司会:齋藤希史)
「注釈が支えるテクスト」
10:05-11:05 金沢 英之(北海道大学)、 馬場 小百合(帝京大学)、 齋藤 希史(東京大学)
11:05 休憩
「歴史の中の注釈」
11:10 -12:10田村 隆(東京大学)、 徳盛誠(東京大学)、 道坂 昭廣(京都大学)
12:10 休憩
【討議】
14:20 「注釈が支えるテクスト」(金沢英之・馬場小百合・齋藤希史 司会:田村隆)
14:50 「歴史の中の注釈」(田村隆・徳盛誠・道坂昭廣 司会:馬場小百合)
15:20 休憩
15:30 全体討議(全員 司会:齋藤希史)
16:00 閉会
主催
科研「国際協働による東アジア古典学の次世代展開──文字世界のフロンティアを視点として」
当日レポート
まず、第一部司会の齋藤先生から、今回の研究会の位置付けについて説明があった。それによると、今回のテーマは過去の注釈の営為について考えることと、今日研究者各自が原典に注釈を施しながら読んでいくこと、つまりは注釈史の研究と今日的な古典注釈の営為とを双方向的に考え、あるべき注釈学―古典学のあり方を見定めていくことにある。
第一部 「注釈が支えるテクスト」
金沢先生の発表は、『日本書紀』古訓を「注釈」としての在り方、という視座から取り上げるものである。周知の通り、『日本書紀』にはもともと原注ないし編纂者の自注と称すべきものが附されている。「訓詁」はテクストと読者の間の時間的距離を前提とするから、当然自注には訓詁が少ない。『日本書紀』の場合にもそうだが、『書記』は日本の事柄を漢語で表記するという空間的距離を内包するテクストであるがために、「此云…」式の訓注が見られる。とは言え、『書紀』の注は「一書曰…」などの異伝や補足情報の引用・記録が多く、訓詁に当たるものは少ない。一方で近世に入るまで、後人の『書紀』の注釈は本文と別立てで伝来し、読解を助ける後注が附されない点が『書紀』と漢文史書・経書との大きな相違であったと言える。しかし当然、『書紀』も時間の経過と共に読みづらい、訓詁を必要とするテクストになっていったのであって、その点を担ったのが本文に附されて伝わった「古訓」であった。その発生は平安期の講書に求められる。『日本書紀』古訓の「訓詁」としての意義に注目した古典的研究に神田喜一郎『日本書紀古訓攷証』(1949初版)がある。神田は通行本(寛文九年刊本)傍訓について、語彙・表現の古さと旧抄本訓点との一致から、その
源流が古い時代に遡るものと見てこれを「古訓」と名付けた。神田が特に注目したのは「古訓」の中に、中国の古い時代、六朝~唐代の漢字の訓詁を伝える訓みがあるらしい事であった。例えば「縁」字を古訓に「ノボル」と訓むことにつき、神田は原本『玉篇』との一致を指摘する。
馬場先生の発表は、『古事記』の歌曲名表記について取り上げる。それは作中、登場人物の歌う歌についての、その曲名・曲調の注記のことである。歌曲名表記については、地名起源譚などと同じく、(『古事記』撰述時に)実在するテクスト外の事柄との関連を示すことによって、『古事記』の語る内容に信憑性を持たせようとした、という指摘(山路平四郎)と、寧ろ『古事記』の史的語りの一部として歌が定位され、宮廷歌謡として発足させられたという指摘(神野志隆光)があるが、馬場先生の視座は(『古事記』とそれが参照する「外部」との関係の双方向性を説いた金沢英之論文の指摘を援用しつつ)その両方を『古事記』と所引歌謡との間の双方向的な運動と見ることにある。その上で、歌と歌曲名とが物語の中で具体的にどう機能するのか、を分析していくことになる。歌曲名表記は特に下巻、中でも軽太子と軽大郎女の物語に集中し、この場面は注目に値する。一つ問題になるのは、歌の前後の散文の情報量に箇所により粗密があることで、結局、事はテクストが想定読者の共通理解をいかに利用し、或いは裏切るのか、という問題に連なってくる。
齋藤先生の発表は「自注の位置」と題して、中国古典文学における「自注」の問題について考える。そもそも「注」とは、中国古典において、中心テクストである「経」について訓詁し、語義を言い換え文義を解説するものを「伝」と言い、これが「注」の原点である。これは読めないテクストを読めるように変換する注釈である。「注」の働きとしてもう一つに、読解に際してテクストの置かれるべき文脈、コンテクストを指示する働きがある(「伝」の中でも、『左伝』や『韓詩外伝』はこちらに当たると言えようか。―レポート筆者注)。コンテクストの取り扱いも、歴史的事実を背景とするものと、作者の意図を探るべきものとでは自ずと違いがあろう。以上の二種類を言い換えると、前者は「釈義」の注、後者は言わば「釈意」の注と言える。「釈義」は訓詁のほか音注や義解、『文選』李善注のように先行する用例の指摘をも含む。「釈意」は制作意図の闡明、制作の背後にある史的事象の考証を指し、『毛詩』小序などは両者を含み込むものと言える。この他に関連する逸話や異伝を伝える注があるが、今回は取り上げない。日本における「注」もこれらの中国の「注」の在り方を継受して発展したものと言える。経―伝の発想はあくまで経本文が中心で、そこに付随するものとして伝が成立する訳だが、G.ジュネットの所謂「パラテクスト」の考えに立てば、寧ろ注釈が本文の性質を規定し、フレームを画することでそのテクストの意義を成立させるのだ、とも言えることになる。中国古典文学におけるパラテクストとしては、文章の「序」「題」そして「注」がその役割を担ったものと言える。この仕組みが整ったのが魏晋南北朝期であったことは、同時期の古典文学世界の成立の一環として、パラテクストの成立があったことを意味しよう。加えて、注を付けることは実はテクストのジャンルを確定する作業でもある。文字テクストは、口頭の語りの連続性・越境性に比べて、類別化し易く自己完結的な断片を志向するものだが、最終的にテクストを定位するのは題名(題)や背景説明(序)といったパラテクストである。そして「注」もまたそうした機能を持つ。四部分類を例に取れば、経・子部の書はテクストの教化的な意図の説明、史部は史実の補足、そして集部は表現意図を探る注が付けられる。且つ、寧ろそのことによりジャンル意識が明確化される。続いて、「序」「題」「注」のそれぞれに就き、テクストの作者自身がそれらを付加する場合を考えていく。詩文の「序」は文集の序や、宴集の際の集団詠の序が先行するが、後に自作の詩文に作者自ら背景を説明する序が出現する。詩文の「題」ももとは無く、当初は後から内容を整理して付けた分類題であったが、後に作者自らが制作時の事情を記した「固有題」と称すべきものが現れる。自序・自題・自注ともに増加するのは西晋から劉宋の時期で、自序・自題は陶淵明が、自注は謝靈運が頻用したものであることは、一つの文学史的画期を成すものであろう。謝靈運「山居賦」の自注は、賦の表現の前提となっている地名や事実を、賦の本文と合わせて示すことにより、寧ろ賦本文の表現としての作為性と、作為主体としての「作者」像を前景化する効果がある。だとすると、自序・自題もまた同様の作者意識を明示する装置なのではないか。そしてこの作者意識の成立は、晋宋期に従前のあらゆる文学ジャンルの展開を集約する形で五言詩の枠組みが確立する、という事象の一端を担うものであろう、との見通しが示された。
第二部 「歴史の中の注釈」
休憩を挟んで、田村先生の発表は、『伊勢物語』の「段末注記」を取り上げた。これは「後人注」などとも呼ばれるものだが、『伊勢物語』自体の成立の複雑さに鑑みて、敢えて「後人」の増補という断定を避けて、今回はこう呼ぶ、とのこと。『伊勢物語』の「段末注記」を含む章段(定家本全125段中、9例)を見ていくと、歌へと到る部分の本文で展開された物語が、末尾の段末注記によって背景説明を付加され、言わば種明かしが為されるという構造がある。それは一つには、直前の本文が示す歌德説話や怪異譚といった様々な虚構的な物語を、後から特定の歴史的文脈を負う逸話として仕立て直すもの(=後人注記)とも言えるし、別な言い方をすれば、ルーツの異なる個々の章段が、段末注記の設定した枠組みによって、例えば二条の后と業平の物語という一連のまとまりある物語群として集成されるのだとも言える。片桐洋一が指摘するように、これは『伊勢物語』全体の段階的な成立過程そのものが、注記によって各章段を特定の人物(業平)に結び付けることを求心力とするものだったということでもあり、山本登朗が指摘するように、段末注記が現行の『伊勢物語』を成立させる重要な方法になっているということでもある。問題は段末注記による各章段の定位がいつなされ、作品の成立にどう関わるかという点であろう。例えば『大和物語』161段は『伊勢物語』第3段の段末注記を本文冒頭に取り入れた姿を見せる。これは『大和物語』が『伊勢物語』より後に成立し、段末注記の内容を前提化して本文を形成したものと言えるが、中世の『冷泉家流伊勢物語抄』もやはり第3段の「懸想しける女」を二条后に比定するのを見ると、物語本文―段末注記―古注の在り方は互いに極めて近いものと言える。但し『大和物語』は冒頭から具体的人名を出して説話風に語り進めることが多いために、『伊勢物語』の段末注記のように最後に章段全体を特定の人物の話として定位するという機能は弱く、それが物語群の結び付きを弱めているのではないか、との指摘もあった。また定家本で段末注記の無い章段も、異本では段末注記があること、『冷泉家流伊勢物語抄』は段末注記が3・5・6段について設定していた「二条后」の物語を『伊勢物語』全体に推し及ぼしていること、『大鏡』の記事に『伊勢物語』12段の登場人物を具体的に比定して示したものがあること、といった例が取り上げられた。最後に、こうした登場人物を実在の歴史人物に当てる発想は『源氏物語』古注にも見られ、中世の古典注釈全般の姿勢にも通じる問題であることが示唆された。
徳盛先生の発表は、『日本書紀』注釈学史の評価に関するものである。太田晶二郎「上代に於ける日本書紀講究」(1939)は卜部兼方『釈日本紀』に引かれてのこる平安期の『書紀』講書の態度について、近世の本居宣長にも比すべき不可知論的で慎重な読解の態度を有し、その点で中世から闇斎学派にかけての『書紀』研究よりも高い水準を持つものと評価する。この評価は家永三郎らに引き継がれて定説化し、中世書紀学の研究が進んだ現在においても、中古の書紀学と中世の書紀注釈とを隔絶したものと見る太田の見方は否定されていない。先生の発表は太田が挙げた講書の例について、当該箇所の一条兼良『日本書紀纂疏』の注釈を照合し、具体的に両者の関係を探っていく。その結果は二つに大別できる。一つは『纂疏』も講書と同じく不可知のことを不可知のままにしている例であって、その場合寧ろ講書の方が中国故事との類比を試みていて、『纂疏』の叙述がより慎重である例もある。また一つは『纂疏』が独自に説明を試みている場合で、この場合も、蛭児の記事に就き『先代旧事本紀』を引いて証するのなどは、講書も用いる参考文献を引いたまでで、解釈態度に相違はない。一方で仏教説を援用して解釈する箇所があり、これは一見すると太田の指摘する「空理傅会」の例に見える。しかし兼良は決して『書紀』の内容と仏説を雑糅させているわけではなく、仏説との類比によって『書紀』の記述の蓋然性を確認したり、イザナミの黄泉下向について、講書のように神・人の別による不思議とするのではなく、パスパ「彰所知論」の援用によって「成劫の終り」の時に起こった人の地獄への転生であったのだと説明する。後者は仏説により深く依拠する例だが、その場合にも仏教と『書紀』の統合的理解を試みているわけではなく、あくまで『書紀』神代の事象を三教(儒仏道)の所説に照らして証明しようとしたのであり、仏説は儒教説などと同じく『書紀』外部の資料であることが明示されている。
最後に道坂先生の発表は、「『懐風藻』の小伝と序の使用典拠から考える編纂意図」と題する。『懐風藻』の冒頭五人の作者の小伝、及び序の用典手法に特殊な意図の仮託を見出した発表であった。例えば葛野王の小伝には『冊府元亀』に引かれて遺る長孫無忌の人物評からの引用とおぼしい四句が見られる。これは何故か。葛野王は高市皇子没後の朝議で直系相続を宣言し、不平を述べようとした弓削皇子を制止した事績が知られるが、これを長孫無忌が高宗の即位を固めた事績に擬えたものと思われる。また葛野王が弓削皇子を叱りつける描写は、『宋書』の王敬則と袁粲の記事に重ねられている。同様に河島皇子は唐初の裴寂に見立てられる。また大友皇子は史書の典拠表現を多用して隋の文帝や漢の高祖などに比すべき、帝位につくべき天命と生来の才を持った人物として描かれる。斯様に典拠の引き方によって天智天皇系の皇族に好意的な記述を実現している一方で、天武系の皇族の描写にはやや冷淡な評価が見受けられる。先生は、例えば大津皇子小伝の「降節禮士」の表現は内心を偽ってへり下る意味があると指摘された。翻って『懐風藻』序を見ると、天智天皇が日本の文運を開いた帝として高く評価されており、しかもその記述は『冊府元亀』の唐太宗についての記事と一致する。先生は、『懐風藻』序から窺える編者の態度は文学者的なものというより歴史家的なものであり、その目的は(編者から見て当時十分に顕彰されていない)天智天皇の功績の顕彰にあったのではないか、と結論された。最後に、序・小伝に特徴的な、中国の比較的近い時代の典拠を引き、古に喩えを取るのではなく中国の人物に直接重ね合わせる用典手法は、こうした編者の意図を示す方法だったのではないか、との見通しが示された。
第三部 討議・総合討論
続いて討議においては、金沢先生と徳盛先生から発表内容の補足があった。金沢先生からは、寛文九年刊本傍訓(古訓)の由来について、近年のご自身の調査に基づく補足があった。それによると、写本の世界では鎌倉期~南北朝期にかけて訓点が整備され、それが現行の三条西実隆本系の諸本にも伝わった。一方、刊本においては慶長年間の古活字版が先行し、これらは無訓本であって、寛永刊本(寛文九年刊本はその覆刻)に再度傍訓が登場するまでの間に空白がある。しかし実際に古活字版諸本を調査した結果、古活字本には兼方本・実隆本系の傍訓が書入れられており、寧ろこうした書入れ本が寛永刊本のもとになったのではないか、との仮説が提示された。徳盛先生は、太田論文が平安期『書紀』講書の長所とした「神道不測」の態度が、語としては『纂疏』にも受け継がれる点に注目する。しかし、兼良は『書紀』の内容自体の不合理な点を不可知、不測としつつも、その事柄が暗示する道理・意義は三教説の応用によって解明され得ると考える。換言すれば、講書が「神道不測」の語を以て『書紀』神代巻の内容を不可知とし、不問に付したのに対し、兼良『纂疏』は同じ語を以て『書紀』神代巻を固有・自立の論理を持つテクストとして規定し、その論理を三教説と照らして考える方向へ、テクストを開いたのだと言える。その他、作品本文自体が外部を参照させるということと後発の注釈との間の同異、同時代的な作品を典拠として利用することの可能性などについて議論が展開された。
(東京大学 早川侑哉)