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特別講義

東アジア古典学の方法 第91回
斯道文庫書誌学実習(5)

日時
2024年1月27日(土)、28日(日)
会場
慶應義塾大学附属研究所 斯道文庫
講師
佐々木孝浩教授

基本情報

概要

慶應義塾大学附属研究所斯道文庫にて、佐々木孝浩教授を講師に迎え書誌学の講義及び実習を行います。
参加学生は東京大学、京都大学、北海道大学で日本古典文学を学ぶ大学院生及び若手研究者です。
今回はアドバンスクラスの開催となります。
尚、当講座は定員制となっております。

主催

国際協働による東アジア古典学の次世代展開──文字世界のフロンティアを視点として
慶應義塾大学附属研究所 斯道文庫

当日レポート

慶應義塾大学斯道文庫にて、5回目の書誌学実習を行いました。これまでと同様、佐々木孝浩先生にご協力を仰ぎ、斯道文庫の資料を見せていただきながら、書誌学について講義をしていただきました。
今回は初めてのアドバンスクラスの開催となりました。
 
以下、参加者が書いたレポートの一部を掲載します。なお、掲載に際して、若干表現を改めたものもあります。
 
《髙尾祐太(広島大学 助教)》
書誌学実習アドバンスクラスでは、二日間にわたり写本と版本それぞれについてご教示を賜った。版本については、版本も写本と同様に一点物だと思って向き合うという基本的な心構えから、五山版・古活字本・整版の細かな知識と参考書に至るまで幅広く教えていただいた。やはり現物を見比べながらお話を伺うと、それぞれの違いがよくわかる。貴重な機会であった。写本についても講義は広範に亘ったが、ここでは特に古筆鑑定について言及しておきたい。これまで古筆鑑定の極札は眉唾ものだと思ってまともに取り合ってこなかったが、古筆見達にも彼等の学問があって、鑑定結果には一定の規則性があるという。しばらく等閑視されてきた学問の価値が再評価されるというのは、古注釈書の研究史と相似で興味深い。今後は古筆鑑定とうまく付き合いながら書誌調査に活用してゆけるよう、古筆の知識と筆跡を見る目を養ってゆく必要があろう。早速この春から古筆切を収集したいと思う。
 
 
 
《求思圓(京都大学))
私が主に扱っている中国古典籍では、特殊な例を除けば、その多くは版本である。日本では写本中心の書物文化が遅くまで残ったことから、多種多様な写本がつくられて、今日に伝わっている。写本の調査の際に大きな問題として、書写時期の判断という問題が提起された。それに対して奥書という存在に注目して学ぶことが大切である。また、古筆切と筆跡鑑定に関しては以前の授業においても言及されたが、実物に触れてそれを学ぶ機会は今回の実習が初めてだった。
二日目は版本に関してふんだんな実例に沢山触れながら指導を受けた。それについて、私が特に関心を持っているのは日本の活版印刷と江戸時代の版本である。
日本の活版印刷について、その技術が豊臣秀吉の朝鮮出兵で日本に伝わり、はじめ朝廷や豊臣秀頼、徳川家康などの公式な出版が行われたが、しだいに民間寺院、武家や一部の上流商人の手に移っていったことから、儒学・仏教以外の分野の書物も刊行されるようになった。とくに、『伊勢物語』、『平家物語』などで知られる平仮名交じりの国文書「嵯峨本」が存在することを初めて知った。漢字は一文字一文字独立しているので、文字1字に一つの活字で表現するのは難しくないが、平仮名交じり文という漢字が草書体で書かれた文を活字で表現することは極めて難しい。当時の日本では、その活版印刷の技術の高さを感じた。
江戸の版本についてだが、江戸版本との付き合い方の基本的なポイントも教わった。私の専門は江戸文学で、江戸時代の和刻本漢籍文集を研究対象としているが、書誌調査の際には、刊記と奥付を読むことで刊行時期を判断することは重要な基礎作業である。また、文集の出版には、書肆と本屋仲間の動向、出版の手続きについても調査する必要がある。
 
 
 
《金鑫(東京大学))
1日目の実習では写本が取り上げられた。奥書は「書写奥書」と「本奥書」に分かけ、二者を正確に識別することは、書写時期の鑑定にとって大きな意義を持つ。奥書の実例を確認しながら、花押や署名の筆跡、そして「本云」の有無などを通じて「書写奥書」と「本奥書」を区別する方法を学んだ。
午後は「古筆切」と古筆鑑定について指導を受けた。「古筆切」は、古い書物の切れ端であり、江戸時代において「古筆切」を蒐集することが大きな流行となった。書物が全本でなく、断片的な形で流伝されることは興味深い現象である。断簡である「古筆切」は、奥書などの情報が確認できず、書写時期の判断が難しいが、それに対応するために古筆鑑定の専門家である古筆了佐が登場し、鑑定の業を世襲し、数百年にわたる家業を守り続けた。古筆了佐の鑑定は必ずしも信頼できるとは言えないが、今日の研究にとって重要な参考資料であり、大いに役立っている。
中国文学研究者の私は、これまで利用した文献のほとんどが版本であった。中国では版本が成立した以降、写本の存在感が非常に低くなり、日本とは大きく異なっている。日本における写本の形態・発展に関する紹介は、私の写本に関する知識の不足を補い、将来の研究にいろいろな啓発を与えた。
2日目の実習では版本を取り上げた。早期の版本は、写本を模倣する意識が強く、写本にそっくりなものも少なくない。その後、版本は写本の複製品から脱却し、出版物として自立するようになった。特に中国(宋・元・明)の刊本の覆刻を主とする五山版の意義が大きい。五山版は、日本出版史における役割だけでなく、中国に伝存しない漢籍の姿や内容を伝える価値も高いと、中国文学研究者の私が実感している。
また、日本における活字印刷の発展は興味深い話題である。中国の文献が全て漢字で書かれたものと異なり、日本の文献には漢字と仮名が混ざるものが多い。特に平仮名を主とするものでは、漢字の草書体から生まれた平仮名が、数文字を続けて書くのが一般的であり、一文字一文字が独立した活字には向かなかったのである。この課題を解決するために、「連続活字」が開発され、中国や朝鮮の活字印刷にはない発明となった。実物に触れるとすぐわかるように、平仮名活字版が写本に似せたものであり、使用された文字(漢字・片仮名・平仮名)によって版本の形式や書物の内容が異なるという特徴も、中国や朝鮮の版本にない興味深い現象だと思う。
 
 
《小田島良(北海道大学)》
前回の書誌学実習では、佐々木孝浩先生より和本における装丁や料紙の種類について学び、和本を扱ううえでの基礎を学ぶことができた。今回の実習ではその発展として、同じく佐々木先生より、装丁や筆跡あるいは奥書の形式などから、いかなる情報が読み取られるのかを踏み込んで学ぶことができた。
一冊の書物の来歴を分析していくためには、とにかく細部にわたる精確なデータを取ることが重要であるということだ。ともすれば、書物を読むとき、そこに書かれている文字にばかり注意がいってしまうが、文字として現れない一見何でもないような部分から読み取れることがある。たとえば、奥書の一部の擦ったような痕跡は、本奥書を書写奥書へと偽装したものではないかと推定される。古活字版と整版の区別においては、匡郭の線と線とが重なる部分に隙間があるかどうか、また印刷汚れの状態などが手がかりとなる。こうした見落としてしまいがちな情報から、一冊の書物の来歴というものが浮かびあがるのである。そして、事によってはその書物についての既存の評価が一変してしまうことがある。
実習中、やはり一番衝撃的だったのが大島本源氏物語の話である。既に実習を受ける前から、佐々木先生の一連の御研究については知っていたが、文学研究における書誌学の重要性を示す実例として、改めてそのインパクトを実感した。
こうした大島本の位置づけの変化を前にして、改めて文学研究というのは何を目指しているのか、より良い本文とは何かということが突き付けられる。そしてまた、そうした問題に真正面から向き合うことの難しさが、浮き彫りになっているように思う。近年発刊された岩波文庫『源氏物語』では大島本が底本となった。それは、新日本古典文学大系を踏襲するものだという。なぜ、今改めて大島本を底本とするのか、岩波文庫『源氏物語(二)』の解説で藤井貞和氏は、近年の研究を踏まえつつ大島本を「中世後期の学問本と称すべき性格を付与されてよい、地方武士たちの真剣な学芸の成果を覗かせた本」であると称揚する。そして「「武士たちの学問だから」と、価値に疑問があると見る向きがなくはなかった。〔中略〕明日知れぬいっときを連歌などに興じたのち、戦場に向かうというかれらが、学芸に対しても漲る気迫を向けていたと、やはり想像のみで済ましたくない、とりわけ『源氏物語』はかれらの情熱を駆り立てずにはいなかったろうと思われる」という。たとえ書写者が武士だからといって不当に扱うべきではないというのは尤もである。また、大島本という存在自体が、中世後期において地方武士たちの持っていた文芸への熱量を伝える貴重な資料であることも間違いない。
しかし、今『源氏物語』を読もうというとき、その目指されるべき本文は大島本に拠るものなのだろうか。かつて新日本古典文学大系で大島本が底本に採用されたことはゆえあることだった。大島本こそ、青表紙本の姿を伝える最善本であり、それを底本とすることで『源氏物語』本来のすがたにより近づけるものと考えられていたからである。そうした大島本の価値が一変した今、それでもなお大島本に拠って『源氏物語』を読むことで、果たしてどこへ近づこうとしているのだろうか。大島本が「地方武士たちの真剣な学芸の成果」であるとして、果たして『源氏物語』の本文のあるべき姿はそこにあるだろうか。ここまで考えた時、『源氏物語』をどの本文によって読むべきかという根本的な問題に今、真正面から向き合わなくてはならないのを感じる。そして、これはおそらく『源氏物語』だけの問題ではない。もちろん、『源氏物語』という作品の特殊性のために引き起こされた面もあるが、同様の問題はおそらく他の作品でも起きうる。これまで最善本とされてきたものが本当に最善本なのか。書誌学的なアプローチのもとで改めて検討していかなくてはならない。
 
 
《間枝遼太郎(北海道大学)》
一日目の写本のお話では、特に書写奥書・本奥書の問題を興味深くうかがった。私がかつて諸本調査を行ったとある文献では、最古写本と見なされていた写本の書写奥書とされてきた奥書(室町時代の年記を持つ)の左側の部分の紙が不自然に破れており、他本と突き合わせるとそこには本来江戸時代の書写奥書が存在していた(室町時代の奥書は本奥書であり、当該写本は最古写本ではなかった)ことが判明するという事例もあった。奥書が書写奥書か本奥書かという点は、書写年代や諸本の系統の判断に直結する重大事であり、奥書部分の細工にも敏感でありたいと改めて感じる。
また、これまでの研究・調査で私が扱ってきたのは多くが写本であったが、今後は版本による情報の流通に着目して研究を進めていきたいと考えていたため、二日目の印刷史・版本についてのお話も大変勉強になった。
 
 
(編集 東京大学特任研究員 松原舞)