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特別講義

東アジア古典学の方法 第84回
斯道文庫書誌学実習(4)

日時
2023年9月2日(土)、3日(日)
会場
慶應義塾大学附属研究所 斯道文庫
講師
佐々木孝浩教授

基本情報

概要

慶應義塾大学附属研究所斯道文庫にて、佐々木孝浩教授を講師に迎え書誌学の講義及び実習を行います。
参加学生は東京大学、京都大学、北海道大学で日本古典文学を学ぶ大学院生及び若手研究者です。
今回が第4回目の開催となります。
尚、当講座は定員制となっております。

主催

国際協働による東アジア古典学の次世代展開──文字世界のフロンティアを視点として
慶應義塾大学附属研究所 斯道文庫

当日レポート

慶應義塾大学斯道文庫にて、4回目の書誌学実習を行いました。これまでと同様、佐々木孝浩先生にご協力を仰ぎ、斯道文庫の資料を見せていただきながら、書誌学について講義をしていただきました。
 
以下、参加者が書いたレポートの一部を掲載します。なお、掲載に際して、若干表現を改めたものもあります。
 
《呉皞(京都大学)》
 斯道文庫の見学を参加して佐々木先生の書誌学の講義を受けて、書誌学は中国の伝統的な文献学研究とは異なり、特に本の形態の特徴とその発展に焦点を当てる傾向があると深く感じました。
 ますます重要となるのは、佐々木先生が本の装訂形態と文字種の差異を強調し、この差異を単なる物質的な違いだけでなく、本の内容性質の一種の反映と見なすべきだと指摘している点です。表紙のデザイン、紙の質感、装訂技術など、本の形態の変化は単なる審美的または実用的な要求に合わせるためだけでなく、本の内容と用途に対する一種の微妙な表現であることがよくあります。これは、伝統的な文献学がテキスト内容の研究に重点を置くのとははっきりと異なります。本の形態の特徴を深く研究することで、私たちは著者、時代、読者との関係、および本が社会的な背景で果たす役割と影響をより良く理解できるかもしれません。
 次に、私は今度の見学で得た知識が私自身の研究領域についての考えを引き起こしました。私は敦煌文献の研究に取り組んでおり、特に敦煌の書仪、蒙書、類書に焦点を当てています。しかし、これらの書物の書誌的な差異がしばしば無視されており、これが私の研究領域の一つの盲点である可能性があります。異なる装訂形態、書写体、用紙の違いを詳細に検討し整理することで、新しい手がかりや認識が得られるかもしれません。
 
《小田島良(北海道大学 博士後期課程)》
 はじめて私がいわゆる古典文学というものに触れたのは中学校の教科書に載っていた「竹取物語」だった。そこでは、光沢のある真っ白な紙のうえに、教科書体の整った文字が、まるで行列のように等間隔に並んでいた。平安時代の物語は、デジタルなテキストデータとして扱われ、教科書という規格化されて大量生産されていた。これは最も極端な例ではあるが、古典文学を読むにあたって、それを印刷された翻刻を通して読んでいると、ともすれば純粋なテキストそのものを相手にしているかのような感覚になってしまう。写本や版本として存在している作品を、テキストデータに置き換えたものが「翻刻」であるはずが、そのテキストデータこそ、その作品のすべてであるかのように思ってしまうのだ。
 しかし、そのような純粋なテキストというものは一種の虚像に過ぎないのだった。前近代においてテキストはそれぞれ固有の書物というモノでしか有りえなかった。テキストは書物を離れては存在しえないのであり、その時代の人々は自ら筆を執るにあたって、表現や内容に対するのと同じように、用紙や装丁に対しても意識を向けていた。ことは既存の作品を書写する場合でも同じで、その作品に対してふさわしい書物としてのかたちが求められた。書誌学という学問の目的の一つは、そうした人々がそれぞれの書物に込めた想いや、或いは企みを拾い上げていくということにあるのだろう。
 装丁と内容との相関は、あるテキストをどのような視点・姿勢から読むべきか、ということについて有益なヒントをもたらしてくれる。髙尾裕太「『平家物語』「剣巻」の密教的展開」(『国語と国文学』九七―一)は屋代本『平家物語』「剣巻」を、真言密教の教理から読み解いたが、そうした読解の方向性のひとつの指針となったのは、粘葉装と同様の紙の仕立て方をするという屋代本『平家物語』の装丁の特徴 であった。私が専門に研究をしている中世の神道説や古典学は、宗教や文学のさまざまな要素が入り混じっているが、そうしたジャンル横断的なテキストを読解するうえでも、その装丁に着目することが同様にヒントをくれるのではないかと思う。
 このように、書物の装丁はテキストと向き合う際のヒントをもたらす場合があるが、同時に嘘をつく場合もある。実習中では、実際に改装が行われた古典籍を拝見することが出来たが、その技術はまさに職人技というべきもので、実際に手に取ってもなおその装丁が本来のものか、それとも改装されたものかその判別は容易ではなかった。書誌学の知識を身に付けることは、こうした古典籍が吐く嘘を見破るための手段となる。大島本「源氏物語」のように、そうした嘘がときには研究の土台そのものを揺るがす可能性もあるのだった。
 
《吉藤岳峰(北海道大学博士後期課程)》
 自分の専門分野は主に近世初期の仮名草子であるため、版本を見ることが多い。そのため書誌学的な知識についての関心はあまり高くなかったのだが、今回の実習を受けて大きく考えが変化した。形式が定まった版本でも内容や時代、国などの要因で形が変わる。貿易などで中国や朝鮮半島から輸入された本には、日本の本にない特徴を持っており、本の出自を垣間見ることができる。近世の文芸活動はこれまでの文学や中国・朝鮮などの文学を利用して再生産するものがかなり多いため、その研究には元の本を調査し、どのように享受していたのかを知ることが不可欠である。そのためには、実際に本を手に取って書誌学的な情報をとることが求められると思った。
 自分は文学研究をするにあたって、テクストの内容の検討に傾倒しがちであると思う。しかしテクストとは本という形にして長年受け継がれてきたものであり、その本自体には作者と享受者両方の情報が含まれている。そこには思いもよらぬ情報が紛れ込んでいるのかもしれない。研究をより良質なものにするにはこのような情報も漏らさず得る必要があるだろう。そのためにも、研究する際にはできるだけ様々な場所に直接足を運び直接手に取って見ることで、今回ご指導いただいた書誌学の知識を生かしていこうと思う。
 
《具惠珠(東京大学)》
 貴重な資料を豊富に取り上げた講義では、実物を即座に手に取って体感し、料紙の質感や量感、装訂ごとの特徴、繊細にしつらえられた装飾などを比べながら講義内容を直感的かつ総合的に習得することができた。また、個々の典籍が内包する情報を多様な角度から丹念に読み取り、その固有の来歴を浮かび上がらせる専門的な知見に触れることも大変刺激的であった。
 講義に続いては書庫の内部を見学し、所蔵資料を用いて書誌情報を記録する実習を行った。書物から読み取り得る様々な情報をいかに整理して記録するのかを学びながら調査カードの作成を試みたが、紙の色や模様、蔵書印、書道の流派などを示す上で参考になる補助資料についても紹介され、興味深かった。書誌学の用語の整備・統一をめぐる近年の動向に照らして、古典籍のあり様を言語化した書誌情報が有機的な連関を持ち得るような体系の構築や、そこから開かれる活発な学際的研究などについても考えさせられるものが多い時間であった。多々啓発される機会を賜ったことに厚く御礼申し上げたい。
 
《金鑫(東京大学・日本学術振興会外国人特別研究員)》
 私は中国六朝・唐代文学を専攻するが、今に伝えてきた六朝・唐代の書物が稀であるので、宋代以降の刻本に依拠して研究を行っている。さらに善本と認められる宋元の刻本は、ほとんどが貴重書で手に入れることが難しく、影印本または現代人の作った整理本に頼ることが多い。六朝・唐代ないし宋代の人々が日常に読んでいた書物、あるいは彼ら自身が書写した原稿はどのような形だったのかについては、文献の記録や博物館の展覧でしかわからない。今回の書誌学実習では、古典籍の実物に直ちに触れながら閲覧することでき、さらに文字内容だけでなく、表紙・料紙・罫線・装丁などの形式上の特徴も細部まで確認できる。初めて古典籍の本来の姿を詳細に系統的に認識し得て、大変感動した。
 各種の料紙を実際に手で触れて、以前読んだ文献の記録に新たな認識を得た。例えば韓愈『順宗実錄』には、忠臣の陽城は奸臣裴延齡が宰相に任命されようとする伝聞に対して、「脱以延齢爲相、当取白麻壊之」と公言した記録がある。白麻は白麻紙で書かれた宰相の任命状を指す。中晩唐では、翰林学士が起草した皇帝自ら下した命令を白麻紙で書き、中書舍人が起草した官府の命令を黄麻紙で書くという慣例がある。黄麻紙は黄檗の汁で染色されたもの。黄檗の汁は苦いので、虫対策として使われたのである。さらに黄檗は苦みの特徴によって、李商隠「房中曲」に「今日澗底松、明日山頭檗」というように、妻が逝去した苦痛を喩えることもある。
 以上の唐代文献を読んだ際、白麻と黄麻が一体どのようなものだろうか、想像するしかなかった。今回の書誌学実習のおかげで、日本で流伝される白麻紙と黄麻紙を自らの手で触れ、白麻紙と黄麻紙で書かれた文献を近距離で拝見し、以前抱いた疑問がやっと解けた。上述した白麻・黄麻に関する文献記録は、より生き生きとして目の前に現れるようになった。
 また、書物の装丁が常に改易される現象も興味深いと思う。自分が書誌調査で取り上げた宋元刊の『王状元集百家註分類東坡先生詩』も改装されたものと思われる。元の胡蝶装を線装に改め、しかも線装からもう一度線装に改めた痕跡が窺える。また、『王状元集百家註分類東坡先生詩』には、五山僧の書き入れが非常に多く、ノートもたくさん挟まれている。実物の調査を通じて、この宋元期に日本に渡来した古籍がどのように昔の日本人に改装され珍重されたのか、その内容がいかに日本の学問者に閲読され議論されたのかは、ありありと目に浮かんで、感慨無量だった。
 
《求思圓(京都大学)》
 私の専門は日本の漢文学の研究で、特に江戸時代の漢文学を対象としているが、江戸期における中国文人文集の出版について調査している。中国文学に対する好尚について明らかにするためには、当時の日本で漢文学者がどのような本を読んでいるか、どのような出版物が流通しているかについて知りたい。よって、斯道文庫の蔵書では、特に安井文庫をはじめとする漢籍および日本漢学関係書中心の特殊文庫について関心を持っている。今回の講義をきかっけに、安井文庫といった安井息軒およびその孫安井小太郎の蔵書を見ることができた。
 そして、国文研の調査カードを利用し、佐々木先生の指導を受けながら安井家の蔵書目録『班竹山房蔵書目』に関して簡単な書誌学調査を行った。資料を利用するために重要な基礎作業であり、細かいところまで注意を支払うことが多い。例えば、書名において内題は「班竹山房蔵書目」と記されたが、外題は「班竹山房庫書目一」と記されたように、やはり内題は必ずしも外題と同一ではない。また、書目の中身を見ると、確かに書名が示すように安井家の蔵書目録であるが、蔵書点検をする時にも用いられたメモなどの性格を有することに気ついた。書物を調査する前に、中身がある程度予想されたが、実際に見ると、予想外のものが発見されたことは、書誌学調査の楽しみの一つであろう。
 
 
(編集 東京大学特任研究員 松原舞)