基本情報
概要
プログラム
総合司会 齋藤希史(東京大学)
10:40-12:10第一セッション【詩作における場と個】
「五言詩の転機」 齋藤希史(東京大学)
「文学の場としての宴席」 道坂昭廣(京都大学)
13:40-15:10第二セッション【作品内の論理と接続】
「『日本書紀』散文部と歌との接続の問題について」馬場小百合(帝京大学)
「「光る君」呼称由来二説」田村隆(東京大学)
15:25-16:55第三セッション【日本書紀と聖徳太子】
「『聖徳太子十七憲章并序註』の聖徳太子」金沢英之(北海道大学)
「『日本書紀』像の変容と聖徳太子」徳盛誠(東京大学)
主催
科研「国際協働による東アジア古典学の次世代展開──文字世界のフロンティアを視点として」
当日レポート
第一セッション【詩作における場と個】
齋藤先生のご発表は、魏晋期の五言詩における自然描写の詠者が如何に設定されるかという点を手掛かりに、山水詩に先行する招隠詩、遊仙詩、上巳詩、登山詩などを考察し、贈答詩、玄言詩などの性質とも対比して考えた上で、場と個という建安以来の五言詩の二つの流れにおいて、五言詩が山中を表現の場とした意義、さらに五言詩の転機としての山水詩を如何に認識すべきかについて解明を試みられる。以下、ご報告を概観したい。
まず、陸機・左思の招隠詩においては、隠者を訪ねるため山中にわけいる表現主体(詠者)が常に設定されている。しかし、隠者と詠者の区別の曖昧さにより、詠者がしばしば隠者として設定された人物になり変わって、山中の知覚を現実のものとして表現する。したがって、隠者と耳目を同一化させた詠者が山中のリアリティーを読者に共有しえたことは陸機・左思の招隠詩の新しさと言える。
曹植の遊仙詩は、仙界遊行によって、自らの境遇が暗喩的に表現されるという詠者の固有性(個別性)の表出が指摘できる。また、何劭の「遊仙詩」では、遊仙の代わりに心を遠くに放つという慕仙の態度が示されるが、「吉士」を登場させることで作者の現実から離れた仮想の知覚を表現する特徴が見られるが、それに対し、彼の雑詩では、同様に慕仙の心境を描くのだが、自己の現実に即している点は「遊仙詩」と違う。
そのほか、張華の贈答詩では、詠者と「君子」との二つの主体が登場している。さらに、「君子」への称えを媒介にして、詠者の心情を述べる点においても、何劭の遊仙詩、さらに陸機・左思の招隠詩の構造と共通する。
郭璞の遊仙組詩に至って、山中そのものが俗と仙とを様々に媒介する空間となり、そこに置かれた詠者は詩を詠じているうちに、自分の心境を変容させていく。その変容は、詠者を囲繞する山林によって促された新たな感覚、新たな心態などによって多面的に示され、また、それをいかに示すかがそれぞれの詩の個別性を示すことになった。それは、交遊の場の称揚とそうした場の外にある個々の憂愁の描出という建安五言詩以来の二つの流れを受けて、そのいずれでもない新たな場を山中に組み立て、それを表現する主体の知覚と行為によって場のリアリティーを生もうとする試みであったと言える。
西晋から東晋にかけての招隠詩や遊仙詩で試みられた表現主体のあり方が、媒介としての山林という場を生み出し、場において変容する主体という意識がそれによってもたらされ、東晋期の五言詩がその表現の舞台となった。
それが四言ではなく、五言で成立したという点に目を向けると、五言詩の詠者は私的な情動を詠じる傾向を持つという点が指摘できる。この点を踏まえれば、五言を用いた仏僧支遁の詩は例外に見えるが、彼の詩では、仏教行事といった個別の時空と詩が結び付けられ、その場における知覚と心態が自身と仏理との一体化へと向かっており、五言詩における表現主体の特性を生かしている。
ここで謝霊運の山水詩を改めて考えると、山水描写の巧みさだけではなく、表出の主体としての個と、それが生きる場としての山水とが緊密に結びつき、一つの世界が提示されていることこそが、謝霊運の五言詩群の新しさと考えられる。
従来の研究では、山水描写そのものに着目して「形似」の発達という点が指摘されてきたが、齋藤先生のご発表は、山水描写が如何にされているかよりも、山水描写を成している側、つまり表現主体のあり方に着目し、山水詩とは何かに対して新たな視座を加えた。建安以来五言詩には場と個という二つの流れがあるが、山水詩がその関係を問い直し、五言詩の基底を作り直しているという視点からは大いに学びうるであろう。
(伍晨曦 京都大学 修士課程)
第二セッション【作品内の論理と接続】
馬場先生のご発表は、『日本書紀』散文部と歌との接続の問題を取り上げ、同じく歌を含んで成り立つ『古事記』と比べて、両者の異同を検討するものであった。その概要は以下のように記したい。
まず顕宗天皇の置目を思う歌の部分は、『日本書紀』において、漢文による散文が歌の内容を先取って解釈し、歌の大意をほとんど散文が事前に解説・翻訳しているかのように見えるものである。一方、『古事記』における散文と歌とは、ことなる視角から物語を叙述することで、物語にふくらみをもたらせている。
次、枯野の船の歌、とりわけ歌の中の「佐夜佐夜(さやさや)」という言葉は、視覚と聴覚が重なっている表現であるが、それと対応する『古事記』の散文部では「七里に響いた」という具体性をもつ言葉が使われており、歌とはことなる側面から琴の音について叙述するのだといえる。一方、『日本書紀』の散文部では、「鏗鏘」という擬声語が使われており、漢文表現として、琴の音の形容にふさわしいが、「さやさや」の視覚的表現の側面が含まっていない。
『古事記』は、訓で書かれる散文と一字一音で書かれる歌とを書き分けることにより、物語を重層的に叙述する。それに対して、『日本書紀』における散文は、歌の解釈として叙述される場合がある。それは歌の理解を一方向に導き、歌の理解を散文に一致させようとするものがある一方で、漢文と日本語という言語の差異を露わに見せるようなものもある。
発表後のディスカッションに際して、馬場先生は、『日本書紀』は感覚・感情のことを事細かに漢文で書くという傾向があるのと比べて、『古事記』の方は、歌がより感覚・感情を表現する機能を担っていると補充した。
田村先生のご発表は、『源氏物語』「桐壺」巻における「光君」呼称由来二説を考察するものであった。その概要は以下のようにまとめたい。
「桐壺」巻における「世の人、光君と聞こゆ」と「光君と言ふ名は高麗人のめできこえてつけたてまつりける」という二説はどのような理屈なのかについて、「光君」命名に関する部分を全て時系列に整理してみれば、世の人の持つ「光君」は、もと高麗人が付けたものだというような考え方が成立できることがわかる。
また、高麗人命名の部分を見ると、高麗人来朝のとき、右大弁の子のように見せかける光君は高麗人に、右大弁の子(=臣下)でもなく、帝王でもなく、何者でもないと認識されたため、「光宮」などの呼称ではなく、「光君」と呼ばれたのである。
そして二説は後世の注釈本において、注釈が付いているかどうかを考察すれば、二説のうち、一説だけに注釈をつけるのが多いが、近世になると、二説ともに注釈をつけるようになるという傾向が見られる。
最後、「桐壺」巻その次の「帚木」巻に出てくる「光源氏」に注目すれば、「光君」命名に関しては説明があるのに対して、「光源氏」の場合は説明が全くないことがわかる。「光君」命名に関する部分は、おそらく次の巻の「光源氏」を迎えるために書かれたものである。また、後代の作品においては「光君」の呼称が稀であり、「光源氏」の方が一般的である。
発表後のディスカッションに際して、田村先生は、「桐壺」巻の「光君」が次の「帚木」巻の「光源氏」を「迎える」というような関係について補充説明した。この点は、「桐壺」巻と「帚木」巻の成立の先後と関わり、「桐壺」巻の最後の「光君」命名に関する部分は、「帚木」巻がある程度で完成した状態で加えられたものだという可能性があると指摘した。
本日のセミナーの主題である「表出された世界」が表れたように、文学創作は「表出」という活動である。そうすると、作品で表出された世界、あるいは読者が作品から読み取った世界は、作者が元々表現したい世界との間、どのような関係があるのか。この問題はなかなか興味深いと思う。
例えば、馬場先生のご発表で示したように、たとえ類似した内容を表現するとしても、和語で書くか、それとも漢文で書くか、異なる趣になってしまう。この点を踏まえて、和語による文学と漢文による文学の違いをさらに分析することも可能だろう。
また、田村先生のご発表で示したように、一つの作品においても、各部分がどのように組み立てたのかという作者の考えが潜んでいることを忘れてはならない。この点を意識しながら作品を臨めば、多くの発見ができるだろう。
(金鑫 東京大学特別研究員)
第三セッション「日本書紀と聖徳太子」。
金沢先生が現場で「『聖徳太子十七憲章并序註』の聖徳太子」という発表を行われた。
金沢先生はまず『日本書紀』という漢字テキストの成立が「歴史・文学の規範となるとともに、変奏・注釈を通じた言説の拡大ももたら」し、聖徳太子の人物像の形成は後者の焦点の一つであるということを提起した。今回に具体の例として挙げられたのはすなわち『聖徳太子十七憲章并序註』である。
今回の研究発表に基づいたのは広島大学図書館蔵影写本の『聖徳太子十七憲章并序註』である。このテキストの底本は平安中期の写本と推定され、現存最古の十七条憲法注釈書とされる。さらに金沢先生は注釈の『梵網経』の思想を反映する箇所によって、『聖徳太子十七憲章并序註』の成立時間は740~750年代、序文の法・令を具体的に言及する箇所によって、成立の下限は757年であることをより具体的に指摘した。その序文を解読すれば、「古代律令制の達成期に、その世界の基盤を作りあげた神話的英雄として太子を位置づけ」たことが明らかになった。発表の最後は聖徳太子像の変遷も言及された。
徳盛先生がzoomを通じて「『日本書紀』像の変容と聖徳太子」という発表を行われた。
徳盛先生は「平安期講書以来の変容を、書紀学の展開として見通す試みとして」、「十五世紀半ばに成立した一条兼良『日本書紀纂疏』を基軸として」考察を行った。
研究方法として、「第一に、纂疏と先行する書紀学との関連を考えるため、纂疏において「旧説」と名付けられる言説群に着目する」、「第二に、「旧説」考察に当たって、十三世紀末に成ったと推定される卜部兼方『釈日本紀』を定点として、それとの差異を確かめることから始める」という二点がある。
記述の比較によって、徳盛先生は「纂疏所載「旧説」は、釈日本紀と明らかに関連をもちつつ、しかしその記述をじかに持ち込んでいない。むしろ釈日本紀成立以降の書紀学の成果を反映した」と『日本書紀纂疏』と「旧説」との関係を明らかにした。
発表の後半の重点は諸注釈書における聖徳太子の三つの顔である。その第一は釈日本紀所載私記の中の聖徳太子の顔、つまり聖徳太子を記紀より以前の史書を制作した人とする抜きんでた教養人像である。その第二は『日本書紀纂疏』が描き出した聖徳太子の顔、つまり書紀編纂のための資質として仏教への造詣が付加された聖徳太子像である。その第三は兼倶抄における聖徳太子の顔、つまり人々に理解できるように「自然ノ文字」による書紀テキストを、漢字に移し変えていく作業を担ったとされる聖徳太子像である。
両先生のご発表の内容は堅実であり、そのうえ、日本文学・日本史を専門としない私でも理解できるほど分かりやすかった。後世に構築された聖徳太子人物像の変遷によって、平安期ないしそれ以後の日本人の精神世界を窺うのは本セッションの二つの発表の目的と言えよう。本論の内容はもちろん素晴らしかったが、それ以外、金沢先生が発表の冒頭に言及した文学は文と人の関わりを研究する学問ということが私にとってとても共感できるところである。両先生のご発表はまさにこのことを証明しようとする実例である。また、会議が設定した討論時間が終了した後でも、金沢先生は中国文学を専門とする齋藤先生と金さんとともに『聖徳太子十七憲章并序註』の序文の理解について盛んに議論を交わした。これは今回の対面の会議によって築いた近隣分野による共同研究の可能性を開花させたワンシーンと言えるであろう。
(盧旭 京都大学文学研究科博士課程)