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セミナー

東アジア古典学の方法 第53回
東アジア古典学のフロンティア―書記表現から見えてくるもの―

日時
2019年3月15日(金)14:00~、16日(土)10:00~
会場
東京大学駒場キャンパス18号館コラボレーションルーム2
講師
David Lurie(コロンビア大学)、矢田勉(東京大学)、佐々木孝浩(慶應義塾大学)、田村隆(東京大学)、金沢英之(北海道大学)、徳盛誠(東京大学)、道坂昭廣(京都大学)、齋藤希史(東京大学)(発表順)

基本情報

概要

 2019年3月15日(金)と16日(土)の2日間にわたって、当科研の一つの締めくくりとして、研究集会を開催しました。
 当科研のメンバーに加えて、David Lurie先生、矢田勉先生、佐々木孝浩先生をお招きし、上代・中古・中世・近世の4つのセッションを設け、討議を行いました。


 上代セッション 司会:道坂昭廣(京都大学)

  David Lurie(コロンビア大学)
   「古代文字史の転換期―Motive, Means, and Opportunity」
  矢田勉(東京大学)
   「日本上代表記史の捉え方」

 中古セッション 司会:金沢英之(北海道大学)

  佐々木孝浩(慶應義塾大学附属研究所 斯道文庫)
   「定説からの離脱―『源氏物語』「別本」を考える―」
  田村隆(東京大学)
   「『源氏物語』写本の表記」

 中世セッション 司会:田村隆(東京大学)

  金沢英之(北海道大学)、徳盛誠(東京大学)
   「中世の『日本書紀』注釈――漢字世界と声の世界の間で」

 近世セッション 司会:徳盛誠(東京大学)

  道坂昭廣(京都大学)
   「日本で漢詩を作るということ―津坂東陽『夜航詩話』から」
  齋藤希史(東京大学)
   「擬古と華音――近世日本漢詩の指向として」

 総合討論 司会:馬場小百合(帝京大学)

主催

東アジア古典学の次世代拠点形成──国際連携による研究と教育の加速

当日レポート

 今回の研究集会は、科研「東アジア古典学の次世代拠点形成」の最後のイベントに当たるもので、上代・中古・中世・近世の四つのセッションを設け、セッションごとに発題と討議を行うという形式で進められました。発題者は、上代がデイヴィッド・ルーリー先生と矢田勉先生、中古が佐々木孝浩先生と田村隆先生、中世が金沢英之先生と徳盛誠先生、近世が道坂昭廣先生と齋藤希史先生がそれぞれ務めました。すべてのセッションの終了後には、馬場小百合先生が司会となって、総合討論も行いました。
 大学院生の参加者は、担当するセッションを決めて、レポートを執筆しました。今回は、参加者のレポートを掲載しつつ、当日の議論の概要を報告します。なお、掲載したのはレポートの一部分であり、掲載に際して表現を多少変更したものもあります。
 
 
【上代セッション】
 
《概要》
 
 ルーリー先生の発題は、上代の日本における文字の普及に関するものでした。ルーリー先生は、『日本書紀』中の文字に関する記述に基づくと、文字が時代の進行に比例するような形で普及していったことが導かれるのに対し、考古学では、七世紀半ば頃から文字が急速に普及したとされていることを指摘した上で、前近代の中東およびヨーロッパにおける冊子本の普及状況を参照しつつ、実際の文字の普及は、考古学によって示されるような爆発的なものであったと考えられることを述べました。そして、刑事ドラマで犯人を特定する際にMotive(動機)、Means(手段)、Opportunity(機会)の三条件が揃う必要があるのと同様に、上代日本における文字の普及も、手段と機会だけでなく、動機があってはじめて起こったと考えるべきであることを論じました。
 矢田先生は、上代の表記の研究に関して、現在の研究の問題点と、通史的な表記史を考える上での困難について話しました。まず、研究上の問題点として、記紀万葉のような典籍が文字資料の中核として捉えられていることを指摘し、恒久的な保持が期待されて作られた典籍のみを特権化するのではなく、木簡などのように、目的が済めば廃棄されたような「消費される文字」資料も含めて総合的に捉える必要があることを述べました。次に、上代と中古以降とを連続的に捉える通史的な表記史を考える上での困難として、上代の変体漢文を、漢文法に則って書かれた中古以降の変体漢文と同列に考えるのが難しいこと、万葉仮名が平仮名へ変化したことの必然性を説明するのが難しいことを指摘しました。その上で、万葉仮名から平仮名への変化に関しては、木簡に変わって紙が使用されるなど、外的な要因も考慮に入れるべきことを述べました。
 討議では、文字の歴史において、合理性は必ずしも決定的な動機とならないこと、それは文字が有する規範性の強さを示すものとして考えられることが話されました。また、質疑応答の中で、両先生は、リテラシーを考えるにあたって、テクストが作成される文脈やジャンルを考慮すべきこと、識字層の拡大のみならず、識字レベルの平準化や高度なリテラシーを有することに対する社会的評価のあり方にも注目すべきことなどを述べました。
 
 
《参加者レポート:関谷由一(北海道大学共同研究員)》
 
 Lurie・矢田両氏は共に、現代日本語の対極に古代文献を置き、前者から後者への漸進的かつ一方的な〈進歩〉を想定するような表記史記述に批判的である 。日本列島での文字使用には明確な〈転換点〉があり、平仮名文の確立過程でも〈飛躍〉を想定せざるを得ないためである 。会場で各氏が指摘していたように、文字表記のあり方は合理性のみでは説明できず、規範に強く拘束される保守的性質を持つ。一見すると逆説的だが、この保守性ゆえに、稀に起こる表記方法の変化は漸進的なものではなく、急激なものとなるのだろう。今日でも程度の差はあれ、他者への伝達のために文字を使用する者は、他者と共有する〈規範〉を意識する。それゆえ、時代の変わり目に〈規範〉が一方的に変更される場合でも、大方の者はそれに従う(終戦後の国語改革での旧字・旧仮名の改廃などはその一例)。質疑応答の中でも、Lurie氏が東野治之氏の研究を参照しつつ、8世紀初めに木簡の書体が六朝風から初唐風に一気に置き換わる例を挙げていた。斎藤希史氏が結論するように、そもそも記すという行為は、生身の人間に対して他者性をもっており、漢字に限らず、文字は言語に対して本質的に「他者」である 。言語の獲得は身体的なものであり、その変化は話者の世代交代による漸進的なものとなりやすい。それに対し、「他者」である文字とその表記の歴史は、社会の変化がそうであるように、より複雑かつ不規則的な展開を示すことになる。ゆえに、文字・表記のあり方を口頭言語に対して、従属的な存在と見なすのは正しくない。
 
 
《参加者レポート:武茜(東京大学博士課程)》
 
 筆者の研究は中国の六朝時代における志怪小説の形成問題ですが、研究方法も歴史社会学的な視点から着目することが多いです。小説研究も正に矢田先生が上代表記史研究に対して総体的な研究が未だなされていないことと、「連続的」に見えるけれども、実際的には断層がある唐以前の「小説」とそれ以降の小説の展開をどう結び付けていいのかという問題があると指摘したような難局に面しています。歴史社会学的なやり方だと、いわばLurie先生がおっしゃる「機会」という要素を重要視し、往々にして小説というジャンル全体の特徴に目が行きがちで一個一個の作品の個性を見落としやすいです。こういう時に、小説以外にも作者の意図を伝えるのにうってつけな文学形式があるのに、なぜ小説が選ばれたのか、さらに「歴史」を伝えることが小説の最初の役目であったならば、なぜ詩文のような「実用的」ではない素材も内容に編み込まれるのか、というふうに「動機」を問い続ければ、個体の作品と小説全体の、起伏のある展開との関係をもっと緻密に検討することが可能になるでしょう。また小説の性質における断層をどう繋げばいいことについて、矢田先生が平仮名の誕生について内的要因のみならず、外的要因も含めて考えることから示唆を得て、「文」としての小説そのものだけではなく、それを作り出した「人」の集団性の変化とか、それを伝える媒介の変化など、文学の周りのものから探ることも大事だということが分かりました。
 
 
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【中古セッション】
 
《概要》
 
 佐々木先生の発題は、『源氏物語』の伝本の系統分類について、従来の分類の有効性を検証するとともに、分類のための新たな方法を提示するものでした。佐々木先生は、まず、池田亀鑑による青表紙本、河内本、別本という三分類を、河内本と別本の二分類に改める見方があることに触れ、池田による三分類説が、青表紙本を「定家本」と改めれば問題なく通用するものであることを述べました。その上で、定家本にも河内本にも属さないものを一括しただけの「別本」を整理する必要があること、特に、定家本や河内本が成立する以前の古伝本を別本の中から識別する必要があることを指摘しました。そして、飯沼山圓福寺所蔵本に定家本や河内本に見られない古い変体仮名が用いられていること、それと同じ仮名を用いるものが別本に分類されている諸本の中に複数存在することを示しつつ、古伝本を識別する方法として、変体仮名の種類に注目する方法があることを論じました。
 田村先生は、『源氏物語』の写本における表記に関する発題として、三つの問題を取り上げました。一つ目は、一つの伝本における巻ごとの表記の違いについてであり、大島本の中でも、「人々」の踊り字の書き方や、漢字表記か平仮名表記かの選択をめぐって、巻ごとにどの書き方を用いるかについて、一定の傾向が見られることを述べました。二つ目は、別の系統の本が含まれる混成本における巻の構成についてであり、どの巻がどの系統に属するかに関して、混成本に共通の傾向が見いだせる可能性があることなどを指摘しました。三つ目は、巻名の表記についてであり、「明石」を「赤石」、「澪標」を「水衝石」のように書く東京大学総合図書館本の巻名表記が、無跋無刊記整版本や版本の『万水一露』にも見られるものであることを示しました。
 討議では、当時の読者が読んだテクストを明らかにしていくことが作品の受容を考える上で不可欠であることや、表記の揺れが個人の書き方に由来するものなのか、その時代における規範に由来するものなのかを判断する際に、統計的な考え方が重要になることなどが話されました。また、どのような書き手によって写本が書かれていたのかという問題や、書写の際に恣意的な書き換えが行われた可能性なども話題になりました。
 
 
《参加者レポート:アーサー・デフランス(パリ国立高等研究院)》
 
 筆者には、文字の研究の成果の、文学研究における応用可能性を詳しく論じるだけの力量がないが、いささか単純にその評価を試みたい。文字の研究の大きなメリットの一つとしては、そのような研究が「テキスト」の歴史性を際立たせる働きを持っているという点が挙げられる。それを通じて、揺るぎない、永久不変の「クラシック」、「カノーン」と考えられがちなテキストは、何らかの具体的な流れの中に生まれたものとして把握できており、それによって、抽象的なテキストの優勢が崩れ、具体的なテキストの多様性がとらえられるようになるわけである。
 『源氏物語』を論じた今回の二つの発表はまさにこのような視座に立って、古典中の古典である『源氏物語』について新しい視点を味わせており、定着した『源氏』のイメージを見直す機会を与えたものであった。さらに、二つの発表の内容は互いに補完し合うものであると言ってもよいだろう。佐々木孝浩先生のご発表は、一言で言えば、『源氏物語』写本の変体仮名の比較検討に基づいた写本分類の捉え直しを提唱するものであるのに対して、田村隆先生のご発表は、今度の写本研究に大きな貢献をもたらすと期待される漢字と仮名の使い分けに着目した研究である。ある意味では、写本研究の従来のパラダイムへの挑戦とこれからの分類方法の新たなパラダイムの構築という二つの方向性が見られるといえる。
 二つの発表は刺激にとんだ、豊富な内容であり、研究者である我々にとっても得るところが多いに違いない。まず挙げられる点としては、我々が研究者として視野に入れる文学作品というものはリテラシーという総体の一部でしかないこと、またそれをその周囲と結びつきをもたない一部として見る考え方は学問上ないし便宜上のフィクションであることが明らかになったということである。そのため、文学の範囲に入っていないいくつかの特定の知識なしでは文学作品をリテラシーの一部として位置づけなおすことはできないわけである。その知識は、たとえば、歴史家によってなされる史料批判を可能にする時代背景とリテラシーの背景の知識である。いうまでもなく、文字に関する知識はその基礎となりうる。最後に、文学の枠組みにとらわれがちな我々にとっては文学とリテラシーという二つの領域にまたがる横断的な概念も必要であろう。なぜなら、そのような総合的な概念がなければ、二つの分野の間に溝が生じやすくなり、一方で得た成果をもう一方の分野に活かすことが難しくなる恐れがあるからである。そのため、ここ数年日本の学界で流行してきた「文字テキスト」のような概念は特定の流れで生まれたテキストを忠実に捉えることを可能にしているという点で極めて貴重な道具であると筆者は思う。
 
 
《参加者レポート:北川原慧琳(東京大学博士課程)》
 
 佐々木先生の国宝『源氏物語絵巻』は平安期まで遡れるものの「純粋なテクストとは言えない」というご指摘が気になったので僭越ながらも質問させて頂いた。佐々木先生は、伝西行「幻」をより価値のあるものだと印象付けるために国宝絵巻を引き合いに出された、と笑い交じりで答えられたが、やはり絵巻というメディアの中での詞書はあくまでも『源氏物語』というテクストの「抜粋」である点を強調された。先生の示唆に富んだお答えの中でも一番印象に残ったのは、「絵巻研究者はやはり絵の方に重点を置いているように思われる。本文を主眼に置いた研究ももっとされるべきである。」というお言葉であった。
 明治初期にはじまり連綿と続いている国宝『源氏物語絵巻』の研究だが、制作時期や過程、誰が誰のまなざしを意識して構想したか等の考察は、やはり絵の構図や採用されているモチーフ、詞書の書風、料紙装飾など、視覚的情報の分析によりなされている。勿論本文に言及した研究もあるが、それらは文字テキストをどのように絵画化したか、何を描き何を描かないか、と絵画テクストの意味生成や文字テクストと絵画テクストとの間の差異に関するものがより多く見受けられる印象がある。
 私の知る限りで詞書を諸本と照らし合わせる形の研究は、中村義雄氏の一九五四年のご研究、「源氏物語絵巻詞書 附、原点諸本との異文校合」(『美術研究』一七四号)や、玉上琢弥氏の一九六七年のご論文「源氏物語絵詞について」(『女子大文学 国文編』一九号)挙げられる。中村氏のご研究に関しては、池田亀鑑氏の『源氏物語大成』の刊行時と同時期に発表されている点が興味深い。なお、玉上氏は国宝絵巻の詞書と青表紙本本文で一致しない箇所がある場合に、それを河内本、別本と照らし合わせるという『源氏物語大成』もしくは青表紙本ありきの方法論を取られている。例えば、「薄雲」断簡に関していえば、絵巻詞書に大島本と一致しない箇所があった場合、その箇所が河内本、別本の陽明家本、保坂本と一致した場合はその旨が記載してある。他方で、青表紙本と異文が確認されていても他の本で一致する本文が見られない場合は特に言及はされていない。つまり、大島本との比較により解明されない部分も大きい、という事になる。ちなみに『源氏物語別本集成』の刊行が始まった平成元年以降も、詞書に関する論文は発表されてはいるのだが、絵巻の詞書全体を見渡し、特定系統や別本、もしくは特定の本との関連性を指摘したものは未だないように感じる。
 本セミナーで先生方のご発表を伺い、最善本とされている青表紙本とまず比べるという方法論の問題性、および時代の下ったテクストと比べる事により零れ落ちてしまうものもある、に気付かされた。既存の方法論をテクストに当てはめるだけではなく、テクストに立ち戻り方法論を問い直す事が重要なのだと感じた。
 
 
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【中世セッション】
 
《概要》
 
 中世セッションでは、『日本書紀』の注釈について、一条兼良の『日本書紀纂疏』と吉田兼倶の『日本書紀神代巻抄』を主な対象として、議論が行われました。
 金沢先生は、平安期以来、漢文で書かれた『日本書紀』をどのように和語で読むのかが『日本書紀』注釈をめぐる中心的な問題であったのに対し、『纂疏』では漢文で書かれた書物として『日本書紀』を読もうとする態度が取られていること、それに対し、吉田兼倶の『神代巻抄』では、神代の「自然ノ文字」を漢字に置き換えたものとして『日本書紀』が捉えられていること、その発想が漢文訓読の過程を逆転させることで生み出されたものであることを述べました。そして、『神代巻抄』における「自然ノ文字」という考え方が空海の思想を受けて現れたものと考えられることを論じました。
 徳盛先生は、まず、『纂疏』について、漢字叙述としての『日本書紀』を注釈の対象とした上で、儒教説、道教説、仏教説との照応によって個々の叙述の意味内容を解明するという方法が取られ、形象の次元、陰陽二気の次元、そして、仏教説から導入した「一心」の次元という三つの次元から『日本書紀』の叙述が把握されていることを示しました。次に、『神代巻抄』について、漢字表現の意味内容を解明するという『纂疏』の注釈態度が受け継がれているとみなせる一方で、『纂疏』とは異なり、『日本書紀』の叙述を、事態を記述したものとしてではなく、事態そのものとして捉えるような態度があることを論じました。そして、両書の関係について、『纂疏』では、『日本書紀』の叙述が神代の事態を現出するものとしてあったのに対し、『神代巻抄』では、事態としての神代を『纂疏』から学び、事態を反映したものとして叙述を捉えることがなされたと述べました。
 討議では、平安期以来の注釈で和語の世界としての神代を想定されたのに対し、『纂疏』では漢字世界としての神代が提示され、さらに、『神代巻抄』では漢字を包摂する、より高次の世界を想定して「自然ノ文字」というものが持ち出されたと考えられることが確認されました。また、「自然ノ文字」が漢文で表されたことについてどのように考えられたのかという問題や、兼倶の思想形成における密教や悉曇学の位置づけなどについても議論されました。
 
 
《参加者レポート:髙尾祐太(北海道大学博士課程)》
 
 兼俱の「自然ノ文字」観の基盤には、真言密教的言語観があると考えられる。そのことは、兼俱の言説の中に密教や悉曇学の影響が看取できることからも判断されるが、『日本書紀神代巻抄』冒頭付近の文からも言える。
 
 言ハ、神道ハ種子也、仏教ハ花実也、文字ハ枝葉也。若無文字、則仏法ノ正理ハ不可顕ゾ。タトヘバ、花開果結之後ニ、此ハ何樹ト云ヲ知ニ相似タリ。若無花実枝葉、則神道ノ種子モ不可顕ゾ。彼仏法乃自神道出、故帰乎吾国、葉落帰根之義也。
 
 右の文はいわゆる仏教花実説或いは根葉花実説と呼ばれる言説で、日本の神道を種子、インドの仏教を花実、中国の漢字を枝葉に相当させることで、神道の本源性を説くと同時に、兼俱の文字観を紐解く重要な箇所である。
 傍線部はその文字観を支える根拠ともなる文である。文字が無ければ「仏法ノ正理」があらわれないというのは、一見当然のことを言っているようにも思われるが、実はそうではない。一般に仏教に於いて、理(真理)は言葉では表せないとされる。兼良への影響が指摘される禅宗も「不立文字」で知られるように、覚りの境界に文字の存在を認めない。それに対して、真理を談ずることができる言語(真言)を修習するのが真言宗である。兼俱の「若無文字、則仏法ノ正理ハ不可顕ゾ」という文字観は密教的言語観に基づくものであると考えてよいだろう。[…]
 兼俱『日本書紀神代巻抄』の次の文を見たい。
 
 太子云、神道以天地書籍、以日月証明云々、天地ノ間ニ、万物変化、四時運転、春秋来、花開落葉、生老病死之理、自然ニ顕ルヽホトニ、天地ハ一巻神書也、其証明ハ日月也。
 
 「生老病死之理」が「自然ニ顕」れているから「書籍」であるというだけではわかりにくいが、密教的言語観を介して見ると理解し易い。万物は区別・認識される差別相であるから文字であり、同時に文字としての万物は生滅という真理(法)を具えている点で法身の実相である。それはまさに真言(或いは真言を構成する文字)であり、兼俱に於いては「自然ノ文字」であっただろう。「天地(ノ間)」にはそうした文字(万物)が遍在しているので、「天地(ノ間)」を「書籍」と言うのだと解される。
 以上を踏まえて兼良と兼俱を比較すると、次のように整理できる。
 
 兼良・・・叙述された神代には、儒・道・仏の三教と共有する理があらわれていて、それは一心の展開としてある。
 兼俱・・・『日本書紀』が「神書」である所以は、理(一心)の顕れである「自然ノ文字」で綴られた書物であるからである。現在の『日本書紀』も聖徳太子の手でそれを一字一字漢字にうつしたものであるから、『日本書紀』の漢字も理と一体ということになる。したがって、「古」の解釈のように、語義に先立って、事態(一心のあらわれ)を直接指示するという思考が成り立ち得る。
 
 徳盛先生は、兼良と兼俱を比較して、兼良は『日本書紀』の叙述表現が事態(それは一心の展開・流出としてある)を現出していると捉え、そこでは表現された神代を追究しているのに対して、兼俱は事態としての神代を追究しているのではないかとの考察を示された。兼良が一心の展開として把握した事態としての神代を、叙述表現そのものにまで求めてゆく兼俱の姿勢は、密教的言語観を通じて説明され得るのではないだろうか。
 
 
《参加者レポート:間枝遼太郎(北海道大学修士課程)》
 
 このセッションの議論を通じて私が関心を抱いたことは、兼倶の「自然ノ文字」論と、古の言葉・文字をめぐる近世以降の思想との連関についてである。金沢先生がおわりに「「自然ノ文字」論のゆくえ」として契沖『和字正濫鈔』や本居宣長『古事記伝』に見える言語・文字観を紹介されたが、その他にも近世という時代には、兼倶が『日本書紀』注釈の中で想定した「自然ノ文字(神代ノ文字)」にも通じるかのような、〈神代の文字〉を標榜する文字と、それによって書かれる〈神書〉が実際に作成されるようにもなっていた。ここでは、安永年間頃には成立していたとされる、『秀真政伝紀』を中心とした神代文字文献を一例として取りあげたい。[…]
 兼倶の「自然ノ文字」論では漢字とは異なる声と文字の世界を求めてそれを『日本書紀』の背後に想定し、宣長は声をあらわす『古事記』と声をあらわさない『日本書紀』という対立の中で声の世界を『古事記』に求めた。それに対し『秀真政伝紀』は、声の世界を『日本書紀』でも『古事記』でもないものに求め、それを現実に存在する〈神書〉として作り出したものと言える。『秀真政伝紀』も、書かれたものの向こう側を求めるそれまでの営みの延長線上に位置付けられ得る部分があるのではないか。
 ただし、兼倶の「自然ノ文字」論と比較するならば、当然のことではあるが、そこには厳然たる差異も存在する。わかりやすい差異の一つとしては、ホツマ文字が(近世以降に作成された類似の神代文字の多くも同様であるが)、五十音に対応した表音文字であったということが挙げられよう。兼倶が想定した「自然ノ文字」は漢字と一対一で対応する表語文字であり、その数は一五三六〇字もあるとされていた。この「自然ノ文字」と漢字との対応によって、「神語」が「自然ノ文字」を介して漢字に置き換えられ得る。それが兼倶にとっての「三教一致」の証明であった(そして「三教一致」を求める意識自体は兼良の『日本書紀纂疏』から摂取されたものであった)。一方、ホツマ文字は「自然ノ文字」のような漢字との対応をもたない。漢字世界に対する眼差しの違いが、ここから看取されるようである。
 以上、近世の神代文字文献『秀真政伝紀』について簡単に述べた。このような神代文字文献は、近世以降盛んに作られ、現代に至るまで隠然とした影響力を持つものであるが、それらが文字と声をめぐる中世の兼倶・兼良らの思想、あるいは近世の契沖・宣長らの思想とどのような共通性を持ち、そして独自性を持つのかということについて、当セッションの特に「自然ノ文字」の話題を出発点として、興味深く思った次第である。近世に『古事記』重視の機運が高まった裏で生み出されていった神代文字の世界にも、中世から続く文字と声をめぐる問題という観点から切り込めるのではないか――漠然とであるが、そのような考えを抱いた。
 
 
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【近世セッション】
 
《概要》
 
 道坂先生の発題では、津藩に仕えた津阪東陽による『夜航詩話』に焦点を当て、近世日本において漢詩を作ることがどのようなものとして捉えられていたのかについて論じられました。道坂先生は、『詩話』が初学者を対象にどのように詩を作るかを説いた書であることを述べた上で、中国で作られた漢詩をすべて良いものとせず、学ぶべきではないものを示したり、日本の地名を中国風に表現することを戒めたり、和歌と漢詩の区別を説いたりすることなどがなされていることを示しました。そして、東陽が、中国人も含む漢詩の作者層に正しくイメージしてもらうことを重視していたこと、東陽にとって漢詩を作ることは、東アジアの教養の世界に参加すると同時に、日本を伝えることであったことを述べました。
 齋藤先生の発題は、近世日本における擬古詩の制作と華音の学習に、当時の漢詩の指向を見いだすものでした。齋藤先生は、擬古という方法が近世日本における荻生徂徠の一派のみならず、中国の六朝期から行われていたものであることを示し、擬古とは、既存の詩の世界の中に加わる行為であったこと、したがって、近世日本における擬古詩はまた、中華になぞらえようとする「擬華」詩でもあったことを述べました。続いて、徂徠派における華音の学習もまた、擬古と同様に、中華への指向を示すものとして捉えられること、当時の中国の音であった華音に替わって、音声は失われているが不変のものである韻律が追求されるようになったことを論じました。そして、今ではない時代と、ここで話されているのではない音を指向することが、世界の基点を模索するものとして捉えられること、その際、書かれたものを媒介として、その向こう側に不変のものを見いだすことがなされていることを述べました。
 討議では、漢詩を作ることがことばの運用能力を培うものであったことや、現実から虚構への逃避としてではない捉え方で擬古詩の制作を考える必要があることについて確認されました。また、詩作に対する態度が中央と地方とでは異なっていた可能性、書物を通して知る士大夫と実態との差異がどのように考えられたのかといった問題も話題になりました。
 
 
《参加者レポート:成高雅(京都大学博士課程)》
 
 道坂先生の発表を聞いて、最も興味深かった点は、津坂東陽の漢詩に対する認識である。彼は日本人が書く漢詩と中国や中国人の作品とを並べることを考え、良い漢詩を作る規則を強調して、他者(東アジア的知識人)に日本を伝える漢詩を目指した。そこには、読者は日本人のみではないという意識もあり、正しい詩を作るために、正しい文字・正しい言葉を使うべきであることなど、言葉を正確に使用することを強調している。そこから私が考えたのは、日本の知識層が漢文を文体として著作する際、読者として日本人以外、東アジアの知識人も想定していたのかということ、そして、それらの漢文著作は、中国や中国の作品と並ぶことを意識する性格があったのだろうかということである。
 私の研究対象である江戸後期の医学考証学派の人々は、漢文で多くの医書考証の著作を残した。医学考証学派は、江戸の儒学界と密接な関連を持ち、医者という特異な身分を持っていたが、疑いなく知識層の学術水準に達していた(津坂東陽の父房勝も、もともと医者であった。東陽は15歳から名古屋で医学を学んだが、3年で医者の道を諦め、儒者の道へ進むことを決意したという。当時の医者と儒学界の繋がりが少し窺える)。医学考証学派の著述は、楊守敬らの活動により、中国へ輸入されたが、当時の中国ではすぐに高い評価を得た。さらに、彼らの考証学的研究手法は、中国医書考証・解釈の発展において多大な影響を与えた。医学考証学派の医書考証は、あくまでもテキスト批判を主とする文献学的著書であり、文学作品のように日本を表現することはできない。しかし、清朝考証学の風潮は書物を媒体として、日本儒学界において高度な発展を遂げ、そこから医学の考証学派を生み出し、医書考証という独特な文献批判を発展させた。そして、その成果がまた中国に伝わって中国の医学史に影響を与えた(厳密な言い方ではないが、現在の中国では彼らの著作は文字通り、多くの中国伝統医学書と同じ本棚に置かれている)。東アジアにおけるこの環流のような現象は、日本人が漢文を通じて日本的学術手法を伝えたと考えることができる。これは、漢文という東アジアの書記方法を用いて、東アジアの知識人への発信ができた実例と言えるのではないか。今後、自分の研究を進める際にも、このような考え方と研究視点を取りいれて、医学考証学派の著述を検討したい。
 斎藤先生の発表内容は大変勉強になったと同時に、一つの問題を実感した。私が知る限りでは、自分を含め多くの中国人留学生(研究者)の間では、日本には自分が研究する分野の所蔵資料が多く、かつ漢文での関連著述が多く残されているため、漢文が読めればそれだけで研究ができると思われている。しかし、当分野の思想的背景は、あらゆる研究においても無視してはいけない。近世セッションの二人の先生の発表はまさに思想的背景を踏まえた上での議論であって、徂徠学に触れずに江戸期の学問を探求することは考えられないと心得た。医学文献とはいえ、江戸後期の考証派の研究をしている者として、私は大変刺激を受けた。今後研究を進めるためには、思想史関連の勉強が必要だと感じた。
 
 
《参加者レポート:張齡云(京都大学博士課程)》
 
 中井積善の考えでは、「華音精通」と「作詩堪能」は異なることとされていた。華音を会得した者が自然に良い詩が作れるわけではないと考えられたのである。「答大出子友書」(巻十一)で積善は以下のように教授法を述べている。「積善平日、率初學之士、使其多讀四唐宋明詩、先記其聲律、其所製作、務令易解、有字句乖法、篇失體制者、輒加繩削。待其運用略熟後、然後理論、格調、深以蹈襲剿竊為戒。」
この思索溢れた教授法に触れると、詩の創作は知力を生かすことであり、知的生産性を要することであったと察知できる。「平仄譜」の声律に従うことは基礎的な規則である。それに加えて、知識、才能および教養(学養)などいずれも求められている。ここで説かれる教養は、経・史を渉猟することにより、身に着けられる見識である。
 先生がたの考えに従えば、江戸時代の詩人は漢詩を創作する際に、常に読まれる対象を明白に意識していた。すなわち、自分が書いた漢詩は限定された読者のなかで流布するのみならず、それを漢字文化圏全体の読者に「見せる」こととなっていた。この自覚を踏まえて、詩人たちは中国で定則となった作詩規則に従い、「正しい」漢詩を書くことにしたのである。ここで語る「正しい」漢詩とはすなわち文字の音韻、典故、内包する感情表現が本場の中国漢詩と同一のものとなることである。そのような自覚は『夜航詩話』に記された津阪東陽の見解によって周到に表明されている。正に道坂先生が指摘したごとく、いわゆる「正しさ」は「言葉が持つイメージを正しく理解すること」及び「事象を正しく表現すること」である。さらに、中国の漢詩に対して、正しい理解と正しい表現を求めることも「正しさ」の一側面となっている。
 したがって、中国漢詩の「イメージ」および「文字」を正しく理解するのみならず、「正しい」詩作を作るには正しい「声律」も必要不可欠な基礎であると認識された。即ち、詩の外在性と内面性の正しさに注意すべきであるということである。それを踏まえて検討を進めれば、中井積善の『詩律兆』に記された詩譜は初心者を対象とするものでなく、詩の標準化を図り、詩の「正しさ」を客観的に追求するものであったと言える。標準を定めることは作詩の際に最も重要であると中井は考えたのであろう。即ち、詩の「律」の正しさも自分の知識を十分に見せることとなっていたのである。
 
 
(概要執筆・レポート編集:東京大学博士課程 飛田英伸)